間の探求

人は病気になることで健康のありがたみが分かります。しかし同時に健康は病気をすることでわかるのだから病気のありがたみも同時にわかったということになります。

これは自然に似ています。自然のありがたみは自然災害や気候変動でわかります。同時に自然災害や気候変動があると自然のありがたみがわかるのです。

人間は、このありがたみがわかるとき、そのものの本体に触れていることになります。そしてこの仕組みは、生と死も同様にその「間」にあってこそ私たちは感覚を得ているということでもあります。

この間にある人と書いて、人間とも呼びます。人間は、社會を形成する生きものです。社會が病んでいることがわかれば、社會が素晴らしいことも敢えて学びます。また社會に見守られている仕合せを感じることで、社會が壊れてしまうことの痛みも感じその両方のありがたさを感じるのです。

平和も同じです。平和のありがたさは、戦争によって知らされます。また戦争があるから平和のありがたさも知るのです。こうやって歴史は何度も繰り返すのは、私達人間は、この「間」にあるからこそ体験から学び、実感を得ては成長する生きものだからとも言えます。

この間に何があるのか、この間が何だったのか、それは時が過ぎていくなかで感じられるものです。それを時間と書きますが、時間は私たちの体験を司るものであり、時代の様相を伝えるものでもあります。

私たちは場や間をよく観察し洞察することで、何が「和」であるのかを察知します。

和を知るということは、場や間を会得するということであり、会得すれば自然とは何かということを直観できるようになると私は思います。

私が場道を通して実践するのもまたこれらの道理を子どもたちに伝承していくためでもあります。一つ一つの意味を紡ぎながら、この先に訪れてくる変化の兆しをよくよく洞察しこれからの時代に備えていこうと思います。

  1. コメント

    「間」というのは、「違い」を認識するためのものかもしれません。それは「別々のもの」ではなく、「同じものが変化によって違いを生じた」ということではないでしょうか。同じ人が健康であったり病気をしたりする。同じ場所に四季が巡る。この変化の「間」をとらえることができることが一つの智慧なのでしょう。その「間」が理解できるから「和」を保つことができ、その「間」を見失うから争いを起こすのではないでしょうか。

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