用と美

来週、綱分八幡宮で伐採した竹を使って竹垣を古民家和楽でつくります。元々、この竹垣は一緒に古民家甦生をした隣家の方の思い入れがあってのことです。地域の景観を磨き美しくしようとしたことの実践の一つとして4年前に取り組んだ思い出があります。

その方はもうお亡くなりになりましたが生粋の職人気質でとても仕事が頑固で丁寧で、それは竹垣の見た目にもはっきりと出ていました。一緒に取り組んだといっても、小さなところまで徹底してこだわりがありなかなかお手伝いというほどもできませんでしたが完成した竹垣を見ると美しく、見ているとうっとりしました。それが台風や県道の拡張工事の関係で一部、失われていたのでその志をみんなで甦生しようというのが今回の取り組みです。

もともとこの竹という素材は、むかしから日本人の暮らしに馴染んできたものです。用と美がある素晴らしい存在です。これを民藝では「用の美」ともいいます。この用の美は具体的には物が機能的でありながら、使い手の心に響く美しさを持つべきであるという考え方のことです。

日本人は、暮らしの道具の中に自然のいのちを活かすような芸術をたくさん残してきました。日常の素材のいのちをよく見極め、その徳を活かしたのでしょう。私が取り組む甦生もまた、同様の視座で取り組んでいます。これは日本人の生き方が暮らしを通して顕現したとも言えます。まさに日本人はいのちの民です。いのちは生き方のことです。

竹垣にも生き方が出てきます。なのでただ竹が綺麗だからと、海外から取り寄せたり、遠方から持ってきたりはしません。あと、やり方や方法などにもあまり固執はしません。どちらかといえば、いのちを大切に使い切る、またいのちの身近で循環できる場所のものを使う、いのちのめぐりを優先するという具合で今回も暮らしフルネスに取り組みます。

竹は同じ地域、眼が届き手が届く範囲で行われることでその素材のいのちが役立ち、みんなで分かち合い共有することもできます。今の時代は、面倒だからや非効率だから、あるいは不便だからとすぐにお金で解決しようとします。しかし循環はお金でなんとかなるのではなく、日々の丁寧な暮らしの「お手入れ」の中で行うことです。調和というのは、本来は身土不二、その土地人合一の実践で行われるものだからです。

ということで、急ですが暮らしフルネスでの竹垣づくりを行いますのでご一緒したい方はご自由にご参加ください。

日時は、2025年10月28日(火)の9時から12時まで、場所は福岡県飯塚市綱分163になります。軍手があれば、あとはこちらでご準備するので大丈夫です。

子どもたちや子孫への伝承と徳積を楽しんでいけたらいいですね。

美しい場

昨日は、地域の企業の方やボランティアの方々と一緒に鳥羽池の清掃や伐採を行いました。午前中だけでしたが、人数が60名以上いたので力を合わせて取り組みました。

ただ全部が綺麗に終わるところまではいかず、時間がかかることがわかります。もうこの鳥羽池に関わって4年目になりますが地元の中学生たちの御蔭さまで粗大ごみは減りました。しかし小さなごみはどんどんまた増えていきます。

釣りが人気な場所で、ブラックバスが有名ですが釣りの人ではないと信じていてもどうしてもそこで捨てているのではないかと思ってしまいます。本来は、人が来れば来るほどにゴミがなくなり綺麗になればいいのですがどうしてもゴミを拾う方ばかりをしていると捨てる方を見てしまいます。

環境設定をして、みんなで池を大切に見守るようにしていかないとこの関係は変わりません。

そもそもお手入れというのは、関わるみんなでするものです。放置すれば荒れていくので、放置せずに見守ります。これは業者がやることでもなく、市役所がやることでもなく、そこに関わる人たちがみんなで大切に取り組んでいくことです。

誰かがやってくれるだろうではなく、自分も何かできないかとみんなで思うところにお手入れの秘訣があります。やり方が分からなければ、やり方を教えるなど、工夫が必要です。

本来、教育というのは場の中で行うものです。自分たちが場をどのように感じて、その場をどのように創造していくか。一人一人の関わり方が場を調えていきます。身近な場が調っていけば、そのうち日本が調います。そして日本が調えば世界もまた調います。

世界を調えるために日々の小さな場を調える。

実践は果てしないようですが確実です。引き続き、場を調えて子孫たちへ美しい場を譲り渡していきたいと思います。

納屋の甦生

現在、浮羽の納屋の甦生に入っています。この納屋とは農具・資材・収穫物・日用品などを一時的または恒久的に保管するための建物のことをいいます。農村ではかつては農業を営む家庭にとって母屋とは別の“作業用建屋として存在しているものです。

母屋とは、一般には,屋敷内の付属の小屋に対して主人家族の住む主要建物のことをいいます。お座敷と呼ぶこともあります。家族の暮らしの中心になっているところで、離れや納屋がそれに付随します。

この納屋は、基本的には物置なので色々と生活するのには不便があります。採光も悪く、風通しもよくない、物置用に設計され配置されています。今回の甦生は、それをオフィスや休憩所、トイレや作業場にすることになり色々と知恵を働かせています。

元々、役割が異なるものを新たに役割をつくるには工夫が必要です。その工夫は、もともとあった役割を活かしつつ、新たな可能性を発見するということです。これを私は「見立て」と呼びます。見立てがいい人は、どんなものでも人でも活かすことができます。見立てができないと活かすことはできません。

この見立てとは、徳のことです。

徳を積んでいると、見立てが磨かれていきます。そのものが持っている素晴らしいいのちをどう活かそうか、どう役立てようかと尊敬しながら取り組むのです。すると、別の活かし方、さらに今の時代に相応しい用い方が発見できます。

そもそも発見や発明は、尊敬の心から湧いてくるものです。素材や存在に対する深い尊敬があってこそその視点は磨かれていきます。

新たに変化する納屋がどのように発展成長していくのか、とても楽しみです。

科学の節目

地球外生命体という存在について考えてみると、色々なことが分かってきます。そもそも宇宙には、生命体というものは無数に存在しています。小さな菌だけでなく、私たちが想像をできないような存在をもあるように思います。その証拠に、なぜ私たちが生命体であるのかは誰も説明できません。この神秘のような生命体は、誰が何のために創造したのか。それは最初から存在していた、あるいは無から突然産まれたといってもよく、科学がどれだけ進歩しても解明することはありません。

ただ、宇宙には好奇心がある生命体も存在しています。その生命体は、宇宙に飛び出しあらゆる科学を探求していきます。つまり宇宙にある様々な要素や素材を組み合わせ、研究し、その偉大な力の一端をコントロールすることを実現するのです。またそれを平和的に利用するのか、あるいは戦争で利用するのかで発展の方向性も変わります。

残念なことに、現代のような科学の進歩は戦争によって発展してきたものです。核融合や暗号化技術、AIや遺伝子ワクチンなども同じです。本来、平和利用しているのなら必要ないことを科学は求めていきます。

例えば、平和利用といえば日本の伝統職人などが最たるものです。自然の素材をよく研究して、より身近で循環して調和するように化学を発展させます。和紙であったり、土壁、水車やかやぶきなども科学の一つです。

平和や調和を意識するのなら、他国や他の星を侵略するための科学技術は発展させていきません。膨大な力は、征服するために使われていきます。

かつて人類も滅亡するような技術を偶然に発明することがありました。しかしそれを危惧した発明者たちは、それを世に出さずに封印するか消し去ったともいいます。それは平和や調和に使われない可能性があったからです。

一度、科学が調和ではないものに発展するとそれを途中で変更することは難しいものです。循環は、危険な循環というものもあります。危険だとわかっていても、一度その科学を用いればそれがまた別の科学の発展に結ばれ進化は止めることはできません。

今、どの方向に向かっているのか、そしてどう進化するのか。

宇宙や星々を観察する科学が進歩したからこそ、私たち人類は危険について今一度、考え直す時機がきたのかもしれません。意識の変容を含め、時代の変わり目にいてあるべき今と未来と正対していきたいと思います。

思い出すこと

ずっと続いている伝統芸能やお祭りを体験するとむかしの何かを思い出します。このむかしの何かとは、先祖代々に繋いできた何かです。科学的には自分の記憶ではないので覚えていないはずですがしかし確かに何かを思い出しているのです。かつて心が何かに触れて感動した記憶は、受け継がれ今でもその感動を繰り返し思い出すことができます。

美しいもの、清らかなもの、純度の高いものや磨かれた玉のような一期一会の体験は、涙と共に思い出が湧いてきます。例えば、子どもの誕生のときや夜空の澄んだ星々や月、あるいは滾々と流れる透明な光やお水など何かの記憶に触れています。

時にそれは太古の記憶に触れることもあります。

私たちのいのちは、花が同じ一年を繰り返し甦生するように私たちも同様に繰り返しその記憶を持ち子孫へと伝承していきます。物質が増え、関係性が変わり、環境も進化すれば少しずつ繰り返しの記憶も上書きされていきます。

しかし上書きされる前の原初の記憶というものは、私たちの心の中にいつも存在しています。それを思い出すとき、心は感動するのです。感動する時、同じ体験を何度も体験します。つまり体験と感動がいのちの本質であり、形を変えても、状況や環境が変わっても心はいつも今も思い出し続けているのです。

これは感動は忘れないという真理があるということかもしれません。

そして感動と役割もまた繋がっています。いのちには必ず何かの役割がありその役目を果たすとき感動が湧いてくるのです。感動とは、本能と似ています。自然に自己のいのちが耀くのです。

私が歳を経て、伝統や伝承に興味が湧いて今に至るのも感動に揺さぶられてきたからです。そしてそれを甦生したのは古民家や智慧の暮らしの影響をいただいたからです。ご先祖様と共に、残りの人生と記憶を見守っていきたいと思います。

古民家甦生

現在、浮羽の古民家の矢切の漆喰の壁に伝統の左官職人により鏝絵をかいていただいています。この鏝絵は、日本最古の宝船図で有名な五条天満宮のものを参考に甦生したものです。宝船は、元々は「田から」から由来するともいわれます。その宝船の図は、船に稲穂があるだけです。現在の宝船は、豪華絢爛で七福神と宝物がたくさんあるもののイメージですが太古の絵は稲穂と舟だけ。だからこそ、なお一層、稲の価値が宝であると実感させてくれます。

また鏝絵というのは、単なる絵ではありません。鏝絵には五穀豊穣、家内安全、開運招福など庶民の素朴な思いが託されるといいます。つまり家の守り神になるように鏝絵に願いを籠めるのです。

むかしは、家が家人を守ることは当たり前でした。様々な厄災や魔ものも遠ざける存在とされていました。家は単なる生活をする場所というだけではなく、家は神社やお寺のように人々を守り導く大切な聖地でした。

だからこそ、その家が代々の子孫を守るように建てるのです。

私が取り組んでいる古民家甦生は、単に古い家を治すだけでもなく、古い材料を使うだけではなく、循環型の素材を活かすだけではなくこの子孫や代々を「守る場」として甦生していくのです。

よく設計図もなしによくやりますねと言われますが、そもそも家という存在を私は神様やご先祖様のように受け止めていて図面を書くのも憚られると感じているところもあります。一つのいのち、その丸ごとの存在としていつも心が離れないように一緒一体になって甦生のお手伝いをさせていただいているだけです。

だからこそ、家が甦生したら何よりも喜びになるしその家を守り守られることで心がいつまでも仕合せでいることができます。いつも神様やご先祖様という存在を身近に感じながら暮らしを営んでいくことができるものです。

私の古民家甦生は、職業でもなく商売にもならない理由はここにあります。もちろん、法律的にも図面を書かないというのは今の時代では許されません。なので、設計士さんにお願いしておおよその図面はきちんと書いてもらい建築申請もしていただいています。私はあくまでアドバイザーとして、現場に携わり棟梁と二人三脚で取り組んでいます。

私が行うのは、仕事ではなく生き方ですからどうしてもこの形になります。

家が喜ぶか、さらにもう一歩、学びを続けていきたいと思います。

本物風

世の中には、肩書や権威、資格などを持っていなくても本物の実力を持っている人がいます。否、むしろ持っていない人物の方が真実で純度が澄み切っている人が多いように思います。肩書を含め、権威というものは外から見てその人を評価する一つの基準です。言い換えれば、基準を決めるモノサシがあってこそです。その基準を決めたのは、本人ではなく外部の客観的な評価です。

例えば、お金持ちなどは分かりやすく数字や規模、持っている資産などで評価されます。しかし真に豊かな人となると評価はできません。それはその人本人のことで、外部からの評価とは関係がありません。

いくらお金を持っていても、豊かとは限りません。またお金と関係がなくても豊かとは限りません。真の豊かさというのは、実際には周囲の評価ではなくその人の生き方の中に存在するものです。

その生き方の豊かさは、その人の心の純度などに出てくるものです。

私はむかしから肩書や権威のことにあまり関心がありません。それに資格なども必要としません。商売をしたり職業にしたりするのであれば、あると便利でしょうがそのことから自分の本質を保つことが難しくなるのであればデメリットの方が多くあります。

誰かにつけられた評価は、わかりやすいものかもしれませんが実際には本当の自分、真実の自己とは程遠いものです。本質は分類わけできず、括ることもできません。人間は、何でもそれっぽく見えるものを特定の単語で評価します。

白衣を着ていたらお医者さん、僧衣を着て坊主にしていたら僧侶。しかしその人は、本当の医者か、そして本物の僧侶かは外見だけで判断したということです。そして資格があったり権威があれば偉いと思い込みますが、何が偉いのか。その偉いのは、実際の生き方と何か関係があるのか。政治的な上下や格差の判断基準で用いられているだけではないのかなども感じるのです。

結局は、人間はその人の徳によりその人を理解するのが一番ではないかと思います。

肩書や権威、資格などなくてもその人の向き合い方や生きざま、そして作品などにその正体がはっきりと明かされているからです。そもそも比べられないものを比べようとするところに偽物と本物の違いがあります。真の本物とは比べることができない唯一の存在だということです。本物風は結局、本物と比べて偽物に対して本物よりだから本物風ということでしょう。

そもそも誰もが本物です。

本物を磨き、本物であることに誇りをもって子孫のために歩んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの関係

顔が見える関係というものがあります。これは私が大切にしている実践の一つです。貝が見えないというのは、見たことのない関係の人のために何かをしないということです。もちろん、顔が見える関係の人からのご紹介で必ず顔を見れる状況になるのがわかるのなら問題ありません。

結局、ご縁を大切にしていると直接、顔が見えるところで関係を結び何かをするときにすぐに顔が浮かぶような心境で取り組むことが一番です。

例えば、私は法螺貝をつくりますがこれも顔が見える人にしかつくりません。他にも調理をして宿泊していただくこともありますがこれも同じです。顔が見える関係から、ご祈祷の依頼がきたり、暮らしの体験の依頼が来るから対応しています。

不思議ですが、顔を思い浮かべながら取り組むとその人に心を運べます。心を通じ合わせていくと顔が見えるのです。思い出さない人のことは顔も思い出しません。顔が見える関係というのは、お互いに顔を見ているということです。もっと突き詰めれば、その人に心を開いているということです。

先ほどの調理でも、安心していなければその人の調理は食べません。人生の大切な御守りなども信頼があってこそ受け取れるものです。その人の人柄や信頼、そして関係性が築けてはじめてお互いに顔が見える関係になるのです。

顔が見える関係になるとき、心は通じ合います。

現在、便利な道具ですぐにSNSなどで繋がるようになりましたがそれだけで接すると顔が見えないことがほとんどです。文字や文章ではその人柄や人物、人格まではわかりません。思い込みや刷り込みが増えてしまうと、本当の顔は分かりません。

顔が見える関係というのは、本心やその人の志、そして人格まで触れることです。

暮らしというのは、顔の見える関係の中でみんなで調和して循環していくことにも似ています。引き続き、暮らしフルネスの関係を磨いていきたいと思います。

 

甦生の中心

現在、浮羽の古民家甦生をしていますがそこは自然との循環が観えるような場になっています。これは農を中心にお米が循環する中で生きている様々ないのちが感じられるように調えていったからです。

例えば、古民家で使われる材料は稲や藁、お米やもみ殻などが用いられています。そして竈で使う土も田んぼのもの。壁は藁壁、むしろで設らえています。田んぼの身近にあるもの、そして自分たちでつくっているもので調えています。

そもそもむかしの日本家屋は、すべて身の回りにあるもの、身近で一緒に生きている自然の一部をお借りしながら暮らしをしてきました。竹製品をはじめ、土製品、植物や木も暮らしの中で大切に育て見守りその自然の利子分をいただいて家をつくるのです。

自分の住んでいる場所を調えるというのは、自分の住んでいる場所のいのちを活かすということです。

私の手掛ける古民家はすべて井戸があります。そしてその井戸のお水を使って様々なところに活かします。ある時はサウナにし、ある時は薬草茶をつくり、日々の御飯や御汁にして暮らしと一体にしていきます。

現代は、遠くからの材料を全部取り寄せてその場所のものを使いません。その場所の素材や材料は邪魔な存在にもなっています。本来、捨てるものなど一つもありませんがお金を使って捨てるものばかりをつくるのです。

そもそも循環とはいのちのことをいいます。いのちが壊れないように接することを私は循環と定義します。心を籠めて心を離さず心で接し続けることではじめていのちは循環するのです。単に材料を科学的に分析して、いくらリサイクルしてもそれは真の意味でいのちを甦生するのではありません。いのちの甦生とは、最初から繋がっていて一体になったままにそのご縁を大切に活かそうとする真心があってこそ甦生します。

最後に、家とは何か。

家は末代までいのちを見守る存在です。これはお社とも同じです。私たちを見守ってくださっている存在です。その見守っている存在を見守ることが私が手掛ける古民家甦生なのです。見守り合いこそ、甦生の中心ということです。

丁寧にいのちをつむぎ、新たないのちを耀かせていきたいと思います。

古民家和楽

昨日は、古民家和楽で二回目の銀杏拾いの会を行いました。たくさんのご家族や友人、仲間たちが集まり和気藹々と懐かしい時間を過ごすことができました。はじめて銀杏拾いをする大人も多くいて、子どもたち以上に楽しく喜んでいるのが印象的でした。

自然農の自家製のお米を銀杏と一緒に土鍋で炊き込みました。それをみんなでおむすびにします。また秋の味覚としてきのこ汁をたくさんつくり、備長炭で炒り立ての銀杏と一緒に食べます。

この古民家和楽の最大の魅力と徳は、お庭にご鎮座する銀杏のご神木であることをみんなで実感する時間です。一年に一度、銀杏の木の下にはたくさんのご縁のある方々が集まり笑い合います。自然の恵みをみんなで分け合うということにここまで安心するのは、そうやって人類は長い間暮らしてきたからではないかとも思います。

現代はすぐにお金で買うようになりましたが、そのお金で買っているものはすべて自然がつくってくれるものです。大地や太陽や風やお水、あらゆるものの中にいのちがありそのいのちがみのり私たちはそのみのったいのちをいただきます。そのいのちに見守られながらいのちに活かされるという体験の安心感は一生涯持続するものです。

たくさんの子どもたちと色々な家庭が古民家の中で一緒に食べてお話をして遊ぶ。昨年はスリランカの方々が来られていましたが、この雰囲気にとても感動され日本に来て一番の体験になったと喜んでいたのが印象的でした。

時代が変わっても、環境さえあればかつての日本人たちが大切にしていた暮らしは伝承していけるものです。

引き続き、暮らしフルネスの場を通していのちを活かしいのちに活かされるという体験を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。