宇宙の法具

昨日は、英彦山の守静坊で新しい法螺貝を二貝ほどお渡しして吹き方と扱い方の実践をしました。お二人は、一人は消防士でレスキューの隊長でもう一人は看護師の方でした。日子山仙螺を持つ方々は、様々な職種の方が多く、芸術家から宗教家、あるいは仙人のような方までおります。

しかし共有することは、志している生き方がとても似ているということです。その生き方の根幹は、道です。道を歩もうと道を実践する方がこの日子山仙螺に辿り着いているように思います。

例えば、昨日のお二人ははじめて福岡に来られた方もいましたが一般的な観光で遊びに来たのではなく懐かしい暮らしを体験したいと一緒に過ごしました。

早朝から宿坊で一緒に作務をして、お手入れや磨きを数時間一緒に真剣に行いました。ほとんど会話を交わすことはなく、宿坊の場に向き合い掃除をします。誰も手を抜いたり、雑な掃除はせず、汗をかきながら丁寧に隅々まで調えていきます。

私は修行とは一緒に行うことで、道の修行は為ると信じています。その証拠に、誰かが教えると教えられるという関係ではなくお互いが学び合うという場が誕生するからです。お互いに思いやり、己に打ち克ち、一緒に成長していこうとするところに道があります。

場を調える作務をした後は、法螺貝を伝承する儀式をしますがその方の初心を確認していのり、その重力を直観させ、静かに息を吹き込み呼吸の方法を学びます。あとは、自然のリズムで法螺貝がその人を導いてくれるので心配はありません。自然物そのものであり螺旋を顕現する法螺貝は、まさに天の権化です。その天の権化が、天道へと人を導いていきます。

最近では量子力学が発達して、波動のことも少しずつ解明されています。宇宙の真理には、波動がありそこには螺旋という回転して揺れる音(周波数)の鳴動が与えるリズムというものがあることも科学的に証明されています。医学的にも呼吸が如何に大切か、そしてバランスを保つ調和が人体にとっても偉大な効果があることも再認識されてきています。

宇宙の法具、法螺の貝はまさに私たちに天の道理を智てくださる貴重な存在です。

お二人がこれからどのように法螺道に入り成熟していくのか。とても楽しみにしつつ、自分の法螺道を英彦山でさらに深めていきたいと思います。

法螺貝の網袋

昨日は、法螺貝の網袋づくりを仲間とやりましたがかなりの時間をかけています。そもそも現代は機械編みの方法なども増えて、人の手が入らないことで時間を短縮し経済効率を優先していきます。しかし、むかしは冬の間や、少し時間が空いた時に、コツコツとみんなで手作業にてつくりこんでいました。それが喜びでもあり、仕合せなことでもありました。

利益から考えると、時間がかかりすぎることやそんなに大量生産する必要のないものであれば一般的な経営者はそれをやろうとは判断しません。よくそのような取り組みは個人の趣味だとも言われます。しかし実際に個人の趣味でも、それが多くの人たちのお役に立つものがあります。経営的には利益がでなくても、それが一人の人間を救うほどに効果があるものもあります。そういうものをお金にならないからと全部やめてしまえば、この世の中はとても貧しくなっていきます。

そもそも貧しいというのは、金銭を持っていないことだけをいうのではありません。そして豊かさというのも何でも自由に手に入ることだけを言うのではありません。金銭などの物差しを少し手放してもう一度、この世の仕組みを観てみたら動植物たちや虫たちは金銭を持っていません。そこに貧富というものはありません。自然と結ばれているところにいると花が咲けば虫が集まってきます。それだけで豊かです。つまり豊かさというのは、あるがままであること、自分らしくいること、そして心を開いて心のままに行動することの中にもあります。

話を法螺貝の網袋に戻せば、仲間と一緒に指先を使って編んでいくのは仕合せなことです。一編み一編み編み込んでは、時には間違えて解きやり直します。お互いに編んだものを観ながら一緒に学び合います。時には絡まったものをほどき直してまた時には、ちょうどいいところで切って結びます。そして法螺貝を包み込み守る網袋を完成させていくのです。

人生というのは、この網袋に似ています。私たちはご縁によって結ばれ、そしてご縁に包まれていることによって今の生を支えられます。特に大切なところは深く厚く編みこまれています。

私が持っている網袋の一つは、法螺貝のメンターからいただいたものです。それを藍染で染め直して今でも大切に使っています。網袋を大切にしていくことは、ご縁を大切にしていくことです。

引き続き、指先から丁寧な暮らしフルネスを味わい子どもたちに古来からの智慧と真の豊かさを伝承していきたいと思います。

稲架掛け

昨日は、朝倉にある大神いにしえの田んぼの稲架かけの準備をしてきました。また隣の畑には、在来種の高菜の種も蒔きました。稲刈りのタイミングで今度は高菜に入ります。春夏秋冬の自然のリズムは、私はのお米と高菜で行います。この自然のリズムというのは、自然の持つ波動と共にする暮らしのことです。

私たちの身体も、そして自然も時を一つ一つ刻みます。この刻むというのは、大切なのは効率優先することではありません。刻むというのは、一刻一刻を丁寧に刻むということです。

そう考えると、どのように今を刻むことがいいのかがわかってきます。例えば、お米が育つというのはどういうことか。苗を本田へ移植し、自然の風と光と澄んだ水と雷と月の光、そして微生物や虫や動物たちと一緒に時を刻みます。そのお米の一生を、自分も一緒に見守ります。そして収穫をするのですが、現代は乾燥機にかけて一気に乾かします。しかし時を刻むことを優先するのなら、太陽の光をしっかりと浴びさせた方がお米の種も成熟します。

そもそも太陽を浴びるというのは、いのちを強くすることです。私たちの元氣というものは、時と光と水、そしてそれを発酵させる触媒となる微生物がいのちを育てています。

稲架掛けは、それまで水田で育って蓄えてきたエネルギーを纏めるのに役立ちます。また稲架掛けの最大のメリットは、その干した稲藁をそのまま活用に役立てることができるからです。この稲藁をつかい、しめ縄や草鞋、あるいは藁ぶきなどに活用できます。

現代の慣行農法は、稲架掛けをせずに収穫した藁はそのまま機械が裁断して田んぼに帰します。藁を使う必要がないからです。

しかしむかしは、藁があったから生活用品がつくれ装飾品などでいのりや暮らしが保たれました。長い間、日本人が維持してきた循環的な自然との共生はこの藁が支えていたともいえます。

藁を大切にする心は、日本人の先人の心に触れます。

稲架掛けがどれだけ重要なことか、実践を通して伝承していきたいと思います。

薬石の徳

薬石というものがあります。私はご縁のあった石英と共に過ごす時間を日々に持っています。石というのは不思議でそれぞれに個性があります。個性とはもちろん形や見た目もありますが、それだけではありません。そこには波動や氣というものがあるのです。私が石で調える理由は、この波動と氣の調和のために行っています。

そしてこの波動や氣は、お水や火を通して力を増幅させることができます。あるいは、人間の身体に流れている電気によってです。現在、薬石などはほとんどが自然放射能のホルミシス効果などのことを言われます。石で病気が治るなどというと、ややもすると現代は薬事法違反になったり、詐欺やペテンなどともいわれます。

しかし実際には残念なくらい効果があります。特に山伏や修験道をし岩窟修行をする人はすぐに岩窟の持つ力のことを知っているはずです。岩窟の中には、強い波動や氣が滞留しています。その力をその身に宿し移すことで、人はその治癒の力を身に着けていきます。

私たちは、意識というか目に見えないところで波動や周波数を発信してそれを感受します。これはラジオなどの電波をあわせるとその音が聴こえるように、周波数の帯域さえ調整できれば物体とも対話は可能です。

私は古民家甦生を通して、古民家と対話します。家と対話なんてと笑われますが、実際に家がどうしてほしいか、どこを治してほしいかがわかるのです。その通りにすると、あっという間に家が喜んでいることを笑って信じなかった人でもすぐにわかります。

それくらい、物質や場には意志や波動や氣が存在するということです。

薬石の素晴らしさは、石の持つ「意志」に由ります。これはダジャレではなく、石には意志があるのです。そしてじっと動きませんが、意志をもって動かないのです。薬石には、薬石の意志があります。

その徳をどう上手に引き出すかは、その石をどれだけ尊敬し尊重しているかに由ります。私の取り組む石風呂や備長炭サウナにはそれがあります。ご縁がある人には、この波動や氣を感じてほしいなと思います。

子孫のためにも、伝承を丁寧に続けていきます。

失敗と成長と智慧

先日、ある方のこれからも人生を走馬灯のようにお聴きする機会がありました。今のその人がそうなっているのは、どのようにそうなったのかを知れるのです。一人の人生の生涯をお聴きするのは面白く、とても豊かです。まるで一本の映画の大作を観るかのようです。

実際には想い出は美化されているものもありますが、おおむね事実はかわりません。その中でどのような感情があり、喜怒哀楽を経てその人が成長していきます。成長する過程で何があったのかをお聴きすると、そこには学が智慧があります。

人生というものは、失敗を通して自分を知ります。内省をし、向き合い、覚悟を決めて改善していく連続です。

また不思議なことですが、人生の課題は先祖代々の課題ともいえます。自分の中に先祖が一緒に歩んでいて、似たようなシーンになって似たような感情やトラウマが発動します。

例えば、大きな決断をせまられるとき、家族か仕事かというものを選択することであったり、信頼しているはずが裏切られるような環境をつくりだしたりなどそれも一つの例ですがそれぞれに何か以前、似たようなことが起きたのではないかというシーンが出てきます。

それをまた上塗りするのか、それともそれを乗り越えて別の展開になるのか。実際には、その両方を繰り返しながら最後には乗り越えて成長していきます。成長するというのは、そこに大切な智慧があるということが隠れているものです。

つまり失敗や成長は、智慧を学ぼうとする宿命や運命が宿っているということです。

一つの人生の中で、それを得たならそれが次世代、あるいは似たようなシーンを乗り越えようとする人たちへの恩恵になります。自分の苦労が、誰かの役にたっていくのです。

自分が何の役に立つのか、どのような使命があるのか、それは体験によって氣がついていくものです。日々の出来事を丁寧に向きあい、自己を磨いていくことが失敗も成長も智慧も高めてくれます。

暮らしを調えて、徳を積んでいきたいと思います。

音と道

昨日からリズム仙人が来て音楽談義をしていますが、その奥深さに感銘を受けるばかりです。自分の知っている音楽は、まるで氷山の一角でその道を究めている人のもつ視座の高さや理解や直観の偉大さには尊敬の念が湧きます。

人は見かけによらないというか、その奥には奥義を極めている人もいます。つまり道を歩み自分を磨いてきた達人たちにしか観えない景色というものがあるのでしょう。そしてその道はどれも共通するものがあります。

例えば、「天」というもの、どの道も天につながる、天と結ぶという意識があります。また自己の「感覚」というもの、中庸の直観のような絶妙な意識もあります。そして「生き方」が深く関係するということです。

天地にいて感性を磨き、生き方を貫く。

これを道ともいうのかもしれません。

道はひとそれぞれに与えられた唯一無二のものがあります。それぞれに自己の一期一会の道が与えられそれを真摯に生き切っていきます。その中で辿り着いた境地、あるいはご縁のお導きによって偶然の奇跡のようなめぐり逢いをします。

不思議ですが、道を歩む人たちは道を歩む人に出会います。それぞれ別々の道であるのにまるで同じ道を歩んでいるような錯覚すらもあります。それは生き方が共通しているからこそ、道が似ているのです。過去にどのような道を辿ったかを聴けば、自分も似た道を通ったといいます。今どの道をいるかを聴けば、まるで同じ道にいるかのように感じます。別の道であるはずが、次元を超え、場所を超え、距離を超えつながり結ばれるのです。

道こそ、不思議なものです。

音楽の道、法螺の道、これもとても似ています。それは音が道とつながっているからです。音の道はまるで仏の道、そして弁財天や吉祥天の教えに共通しています。

妙音菩薩を観て、道の喜びを直観しました。次回の仙人苦楽部を心から楽しみにしています。

古民家の徳

現在、浮羽の古民家甦生を続けていますが日々に創意工夫の改善をしています。よく考えてみると、常に新しいことに挑戦し、温故知新し続けていますから同じ古民家になることは一切ありません。毎回、集まってくる材料やその古民家が一番喜ぶ状態に近づけるために対話をしてはそこに最も合うもので甦生していきます。

伝統職人さんたちも長いお付き合いで技術を含め、人柄やらしさを尊重しながら家がどうしたら喜ぶかを確認していきます。何を大切にするか、優先するかは家が一番、そして主人の理念がその次です。私の特徴はあまり人の方ではなく家の方を優先します。

なので誤解されることも多く、また理解しない人もいます。現代の世の中では、お金や人が中心ですから物はあくまでもその補助的道具のようなものです。しかし私は家自体の中にこそ人が守られ、その中で流れる空気や場こそ真の経済が発展すると信じていますからその軸は変えることはできません。

むかしから家には歴史があり、思いがあります。そしてその場所の変化もあります。かつてはどうなっていたのかという事実をよく洞察し、今はどうなっているのかをよく観察し、これからどうなっていくのかを直観します。

その上で、家に新たな使命や役割を得ていただき新たなパートナーとして甦生をしていくのです。

古民家甦生が豊かな理由は、今までの家の甦生で得てきた智慧や教えや仕組み、そして経験が活かされることです。頭で考えることが減ってきて、感覚でどうしたいのかが観えてきます。風通しや光の加減、水の流れや配置など家が求めているものが自然に伝わってきます。

私は自然農や法螺貝づくりもしますがどれも似ていて、そのものがどうしてほしいのかが感じられそれに対応する技術が磨かれてきたのかもしれません。もちろん、失敗も多く、要求のすべてに叶えられないこともありますがそれでもその一緒共感でいる時間はとても仕合せです。

家は、甦生することで生まれ変わりそして新たな時代と主人と共に成長していきます。その成長を見守れることもまた喜びの一つです。

家という存在が、私のライトワークの一つになっていることに感謝です。これからも「修身斉家治国平天下」を実践していきたいと思います。

情報の本質

現代は膨大な情報量が氾濫している世の中です。毎日何もしていなくても情報が入ってきますし、その環境があります。人に会えば、新しい情報が次々と入ってきます。情報格差も広がり、膨大な情報を整理して商売をしている人もたくさん増えてきました。このインターネットも広告をはじめ、あらゆるところに情報が選別されて配信されます。

情報の海に浮かんでいる人たちは、次はこれと毎日情報を漁り、あるいは比較してはもっといいものがないかを探しています。そのうち、一つのことや大切な道を丁寧に数年かけて歩んでいこうとすることをやめ真新しいことばかりに飛びついては転々と横移動を続けています。

本当によい情報とは何か、それは実践から得られる智慧です。その人の人生に真に影響を与える情報と、欲望やエゴが助長されていく情報もあります。つまり情報の本質をよく学ばないと、気が付けば情報に左右されて情報に呑まれて自分を見失うのです。

さらに人工知能が出てから、その情報の取捨選択の基準も変わってきました。その人の持つ興味や関心のおおよそを先読みして適切な情報を探してきます。考えることもしなくていいほどに便利になってきたのです。

そもそも情報には、必要のないものもあります。別にわざわざ知らなくてもいいものもあります。むかしは、そんなに情報がありませんでしたから比較対象もなく自己の中で辿り着いた場所で導かれたところで情報を獲得していました。それが道を歩んで得られる智慧です。

今は、道に入る人が減っていく時代だと思います。道に入る時間もないほどに、ありあまる情報で目移りをしていて一つのことに長続きもしません。故事に「石の上にも三年」というものがあります。この三年は長い歳月ということですが、実際には三年やろうと思ってやっている間に他の情報によって三年ももたない人が増えてきているようにも思います。もっといいものをというのは、情報化社会の中ではよいことではありますが結果よいものであったという発想にはなかなか到達しないものです。

内省と改善を続けて実践をしていく一つの道の中には、情報化社会では選らない稀有な情報があります。こういう時代だからこそ、コツコツと丁寧に一道を究めていこうとする生き方が人間性を磨くためにも必要な気がします。

色々な人と出会い別れを続けますが、今でも実践を共にする仲間たちは離れてもいつも一緒に道を歩んでいます。そして時おりの情報交換で元氣を得ては、さらに精進します。切磋琢磨です。

本来、情報は切磋琢磨の道具でなかったかと思います。

時代が変わっても、普遍的な道を歩みながら道に報いていきたいと思います。

お山の甦生

昨日は、英彦山を遊行してきました。お山の中の風は少し乾いてきていて秋の空が広がっていました。沢に流れるお水も清浄で、ところどころに光が差し込んではきのこや松葉を照らします。

最近の大雨や暴風の影響でところどころに木が倒れて道をふさいでいました。それを片付けながら、丁寧に歩いていきます。祠を見つけては供養をし、かつての山伏の墓をみれば合掌して歩きます。お墓には、年号が彫り込まれており1600年代のものもありました。よく考えてみると、たくさんの山伏たちが暮らす山はそれだけたくさんの方が亡くなっています。山のあちこちにお墓があるのは、そういう人たちの暮らした跡ともいえます。

また英彦山には岩窟がたくさんあります。もともと修験者たちは岩窟修行を行いました。岩には特別な波動が息づいており、それを感得しては霊験を得たのでしょう。岩の中に静かに坐ると地球の脈動を感じるものです。

また法螺貝を吹くと谷が観えます。谷は幾重にも重なり、法螺貝の音色がやまびこで跳ね返ってきますがそれが谷全体に響き壮大な音響です。

錫杖を持って大地を歩くと、土の音が聴こえます。また振動からお山と対話しているのがわかります。鎖場に入り、時おり錫杖が登る時の妨げになりますが上手にそれもいなしていきます。

呼吸を深くして、眼を閉じればお山の氣配を感じます。

お山は元々は信仰の場です。レジャーをするのではなく、お山に来て心身が浄化され調います。私たちの先祖は、常にお山に来ては調和を磨きました。あらゆるものと調和して、自己を深く見つめてはお山でいのりました。

信仰というのは、反省して歩くことです。決して宗教ではなく、宗派などでもなく、経典ではなく権威でもない。

人間はお山からはじまりお山を降りて文明をつくりました。お山は人間の原点です。お山に帰り、内省をして本来の人間とは何かということを見つめ直す。お山は心の故郷であり信仰が興る場です。

丹誠を籠めてお山を甦生していきたいと思います。

慚愧懺悔六根清浄

英彦山の遊行を毎月行っていますが、その際にお山を歩きながら「慚愧懺悔六根清浄」(さんぎさんげろっこんしょうじょう)と唱えながら仲間とお山を歩きます。

この懺(さん)は、心の咎を天に恥じること、そして愧(ぎ)とは自分の犯した罪を地に恥じることをいいます。

涅槃経に「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」とあります。

つまりこの慚愧懺悔とは、深く内省をして天地の間で自分をよくよく見つめ反省していきますという意味です。内省しながらお山に入り、反省をすればそのあとに六根が清浄になるという意味です。その六根清浄の「六根」とは私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官のことをいいます。そして「清浄」とはその煩悩や私欲から遠ざかり、清らかで穢れのない境地に入ったことをいいます。

シンプルに言えば、「お山の清浄な場を歩かせていただきながら、日頃の自己をよくよく振り返り素直に反省して心を澄ましていこう」という掛け声です。

これをみんなで唱えながら遊行します。

私たちは生きていれば、氣が付かないうちに環境の影響を受けては喧騒と煩雑な日々を過ごしていきます。いくら氣をつけて注意していても、知らず知らずに心が穢れます。穢れは、氣枯れともいいますが元氣が消耗していくのです。

毎日、私たちの細胞が生まれ代わるように日々もまた生まれ変わります。その中で、穢れが増えていくと甦生が澱んでいくものです。水が下流に流れていくときに次第に混濁していくようにいろいろなものが混ざってきます。本来の透明な魂や玉のような状態が隠れていくのです。

その隠れたものを綺麗に洗い流し、注ぎ、浄化して元の状態に帰っていく。それがこのお山で歩く理由であり、古い信仰の原型ともいえるものです。

古い信仰はすべてこの「穢れを祓う」ことからはじまります。いつも澄ませていこうとする生き方の中に、人間性を常に保とうとする自然と一体になった神人合一の精神があります。

時代が変わっても、人間の本質は変わりません。世界は自然破壊を続けて目先の経済を膨張させることに人々は躍起になっています。ありあまる富は一部の人たちの権力を守るために集中し、奴隷のように洗脳される教育や環境によって目覚めることもありません。

法螺貝を吹いて、錫杖をつき、お山を歩けば道に覚醒するものです。英彦山の守静坊の場から目覚めた法螺吹きを甦生させ真に心を澄ます道を照らしていきたいと思います。