言い方、伝え方

人は言い方、伝え方で好感を持たれる人と、嫌われる人がいるものです。相手のことをよく配慮し思いやっている言葉は、相手を心地よくします。その逆に自分の主張や相手を変えようとするような言葉は嫌悪感を抱かれます。

哲学者のニーチェは「人が意見に反対するときはだいたいその伝え方が気に食わないときである」とも。つまりは、言い方や伝え方でその結果が全く変わるということです。

それはなぜなのか、それは相手は自分の立場や自分のことばかりを考えているからです。人間は計算したり考えているうちに頭ばかりを働かせては自分の思い通りにしたいと思っています。そうしているうちに、思いやりが欠如しています。本来、相手に寄り添い、全体がよくなることを包み込むように配慮している人にはやさしさがあります。

忙しくなったり、自分が不利になっているとそれが失われるものです。特に困っていたりするとなおさらそのようになります。

孔子は、その弟子とのやり取りの中で弟子のひとりの仲弓が、仁とはどういうことかと質問したとき、孔子は「家の外で他人に逢うときは、その人を自分にとって何よりも大事なお客のように扱わなければならない。人民を公役に使うときには、祭りを執り行うときのように慎み深くしなければならない。自分が他人からしてもらいたくないことは、他人にもしてはならない。そうすれば国の中枢にいても人に恨まれることはなく、家庭にあっても人に恨まれることはない。」と諭しています。

相手を自分だと思って考慮すること、つまりは配慮していくことで思いやりが出るといいます。思いやりと向けられた人は、その人に感謝して礼を盡します。相手がもしも自分だったらと考える人同士であれば、争いが起きません。

それが人間関係の真髄ということなのでしょう。観音経の実践をすると、全ての人たちが観音様に観えるといいます。

自分はとてもまだまだで苦労することばかりですが、精進していきたいと思います。

対話と尊重

世の中には悪平等という言葉があります。これは簡単にいうと個性や能力などの違いを考慮せず、ルールに形式に則り結果のみ平等に扱い逆に不平等になっているということです。

そもそも平等というのは、与えて側のものではありません。平等は受け手が実感するものです。平等に扱われていると思えば、それは平等です。与えての平等というのは、公平ということです。

この悪平等に似たものに不公平があります。この不公平とは、特定の状況や条件においてある人やグループが他者に対して不利な扱いを受けることをいいます。

この問題は、誰かだけを特別扱いしないということでしょうがそもそもそれをする側が自分が特別になっているということを自覚しないといけません。この世の中は、多様に色々ないのちが存在します。自分が勝手に公平だとか平等だとか思い込んでも、実際にはそんなもの存在しません。

例えば、身体の大きな動物と微細な小さな虫があったとします。同じ地球の中で、空気を吸って水を飲み暮らします。どのような場所に生れ落ちるかで環境も異なりますし、先天的で遺伝的な能力や個体差もあります。途中で病気や怪我をすることもあれば、幸運不運はそれぞれに異なります。

結局、自然あるがままのなかでそれぞれが主体的に選択してお互いを尊重しあいながらこの世で暮らしているだけです。それを、誰か特定の存在がさも法律や大多数の人たちの声だけを優先して平等や公平を振りかざせばそれが悪平等や不公平になるのです。

そもそも御飯を食べるにしても、小食の人もいれば大食漢もいます。同じランチを食べても、同じ量分けたら多すぎて苦しくなる人と、少なすぎて苦しくなる人がいます。話し合いをし、お互いがちょうどいいところをみんなで尊重しあいながら取り組むことが公平であり平等になります。同じ量、同じ分、同じ内容だけでいいという判断は、尊重しあわない受け身の時によく発生するものです。

結局、不正義というものまた同じです。主体性というのは、お互いを尊重し合おうという意識です。主体性のない、言われたことやルールにだけ従ってロボットのように働いていると悪平等や不公平を繰り返すだけの人になってしまいます。

人間には、意思がありそして自分というものを持っています。社会の中で一緒に生きていく関係だからこそ、お互いを尊重しあい助け合い支え合っていけば自然に平等や公平ということの真意が伝わり合っていくものです。そしてその中心には対話があります。尊重することは対話することです。尊重しないことは対話をしないということであり、そこに真の不公平も悪平等も存在します。

価値観やルールが異なるからと諦めることではなく、お互いの違いや異なりを認め合い共に同じ理想郷に向かって協力しあうとき自然は平和をつくるように思います。

引き続き、対話と尊重を学び続けていきたいと思います。

 

アチマリカム

この数日、英彦山にて神晃講のお世話をするご縁をいただきました。この神晃講は河内の国一之宮である枚岡神社に近くにある表博耀氏のご自宅を根本道場とする修行者の集いです。

表博耀氏の紹介は、ホームページから抜粋すると山蔭神齋80世・創成神楽宗家。日本国エンターテインメント観光マイスター。一般社団法人日本文化伝統産業近代化促進協議会会長。出雲観光大使。1962年大阪生まれ。幼少の頃より古神道・修験道を学ぶ。20代より美容師としての活動と並行して「ネオ・ジャパネスク(温故創新)」と題した独自の日本的世界観を表現する神楽や芸術作品展などの事業を各国で展開。2016年国家神道の中核・山蔭神齋80代を継承し、山蔭員英を拝命。古代の習わし(生活様式)を現代の生活に活かした祭祀を執り行いながら、八意天思兼神(ヤゴコロアメノオモイノカネ)が創始した(霊祭道)神楽にある和合の力で岩戸開きを起こす世界聖地巡礼観光『プロジェクトフェニックス』を実践している。日本文化伝統産業近代化促進協議会(通称 J-ART)とあります。

一緒に英彦山を歩きながらお話をお聴きすると、14歳の頃からこの神晃講を実践され、世界各地の修験の山々や聖地で修行されておられました。そのどれもが、自学自悟で自分の眼でそして自分の手で肌で身体で体験したことを修めるという修験の生き方をされておられました。

また数々の伝承者の伝承を受けておられ、その一挙手一投足から発する言葉に至るまですべて伝承あるがままを生きておられました。参加された修験者たちも若い方から年配の方まで男女問わず多種多様な個性の方々でしたがどの方も腑に落ちる、そしてしっくりくると身体感覚でその真理や伝承を感受していました。

特に印象深かったものは、川面凡児氏の禊行です。色々な滝行を体験してきましたが、禊による甦生の意味やいのりの真の目的なども実感できました。また理想郷をいのる「アチマリカム」というご真言もまた新鮮な響きでした。このアチマリカムとは、「どうかよろしくご統治ください」という意味になるといいます。

いよいよ世の中が自分たちで統治できなくなってきたとき、全てを手放して神様にお任せして理想郷に回帰しようとするときの隠語でありご真言です。それを御祖に御報せすることで弥勒の世になるというものです。

よく考えてみると、はじめてこの地球に降り立った人は最初の神様でありそれを御祖(みおや)といいます。この御祖の意識が、どういう未来を創造したのだろうかと思うのです。美しい自然、星々、いのちの数々、あらゆる宇宙の光や音を感じてこの星をいのったように思います。その星で生きていく生き物たちはそれぞれが多様に尊重されお互いと結ばれながら和合して存在します。

その和合しあるがままにある姿にかんながらの道を感じたのでしょう。

本来の目指した姿がどうであったか、そういう意識に目覚めていくことはまさに今のように思考が世の中を席巻する世界には必要なように私は感じます。

私は暮らしフルネスといって、生活文化、生活様式の中に根付く古来からの智慧や信仰を実践することで人々は元々の元氣や自由を取り戻すと確信して取り組んでいますが、表博耀氏のこれまでの生き方や実践から本当にたくさんの學ぶことをいただきました。

縁尋機妙、多逢聖因ともいいますが、有難い一期一会に感謝です。

引き続き、場をととのえながら丁寧に暮らし、自分の天命と役割に集中していきたいと思います。

講という信仰

この二日間、大阪で歴史のある修験道の講のお手伝いをする機会がありました。英彦山を先導して歩き、私が感じる信仰の場所をご案内し共に修行し、共に笑い、共に食べ、共に歩き、共によき時間を過ごしました。

私は講というものは、三浦梅園先生の慈悲無尽講から学んでいましたが実際に歴史のある講の方々をご接待することで講の本質を垣間見ることができました。

そもそも修験道とは何かということにおいては、験を修める道とありますから読んで字の通りでしょう。では講とは何かということです。私は、この講とは別に「結」というものを宿坊の茅葺の葺き替えで学びました。宿坊は、機械や重機など何も入れないような場所にあるので200人の人の手でみんなでバケツリレーのようにして2000本ほど萱を運びました。みんなが力を合わせて助け合い生きていく仕組み、まさにそこに結の智慧を感じました。

この結に近いものがあるのが講ですが、講の方がもっと強い信仰を持っているように感じます。現代では、推し活動(おし活)というものがあります。先日も、ある若いピアニストをみんなで推して支えようと活動をしている人とお会いしました。その方々はそのピアニストのために全力で推して経済的にも精神的にも全身全霊で応援して支えておられました。各地のコンサートには駆けつけ、練習風景はSNSで発信し、まるで家族の一員のように見守っていました。

信仰というものは、人間が生きる支えになるものです。信仰があるから人は元氣になり、若々しくも瑞々しくもなり青春をし続けていきます。まさに信仰とは、好きであることです。

好きなことがあることは、人生を真に豊かにします。それは好きな人いることでも同じですし、好きなことをしている人も同様です。好きなことが同じ人が集まると、そこには自由闊達な集団が誕生します。

本来、無理をして組織などつくらなくても人は好きなことで集団をつくるものです。私の周りには、左官集団などの伝統職人集団や、音楽関係集団、波動を学ぶ集団、またあらゆる分野のオタク集団があります。どの集団も、自然発生的に集まっていてとても自由です。そして同じ目的で集まった人たちは、共感しあい助け合う場ができます。

時代が変わっても、人の本質は変わりません。

暮らしの中で信仰があること好きなことがあることはとても仕合せなことです。私もあまり現代の組織論や集団、外部から評価される信仰や宗教などに惑わされず、好きに遊行を生きていきたいと思います。

ありがとうございます。

有難い行

昨日も滝行をしてきましたが、お水がとても清らかで心地よく清々しい時間になりました。私の滝行の場は2種類のお水があり、それが混ざり合う場で座禅をして瞑想をします。強く流れるお水と、静かに優しく流れるお水。水は同じに見えますが、実際には同じ水は一つも存在しません。

流れてくる経路も異なれば、どのくらい土中にいたか、あるいは雲として何処から流れてきたものか、そして落ち方、音、揺れ方、時間帯でもすべて異なります。また、お水はお水を感受する側の状態によっても変化します。自分の気持ちが真心や感謝で充たされているのならお水もその状態に合わせて応えます。また激しい感情や煩悩があれば同様にお水は状態に合わせ応えます。

まさに和合の象徴で和合の化身がこのお水ということです。

これはお水に限らず、火でも同様のことが起きます。この世はあらゆるものが渾然一体となっている存在です。だからこそ、渾然一体の中の一つが自分の出す波動の一つにいって応えるのです。あらゆる引き出しが自然の中にはあり、その自然の一部が自分の状態に合わせて和するということでしょう。

滝行の有難さは、お水の尊さを自覚できることにあります。滝行後は、肌の感覚が変わります。少しの水気でも肌が感応します。例えば、杜の中に近づくと奥から流れてくる水の気配で全身がその杜の深さや厚みを感じるほどです。

他にも田んぼからのお水の流れ、空の風と共に動く雲の気配、飲み物や食べ物などからもお水を徳を感受感応します。

本来、私たちの身体や意識はお水で形成されています。そのお水であることを忘れてお水ではないものに囚われていくものです。滝行はそれらのお水の感覚を呼び覚まし、原点回帰してくれる有難い行です。

人生の中で滝行に出会ったことに喜びを感じます。ついやりすぎると冷えが蓄えられて、調整が大変ですが炭火を含め色々と暮らしフルネスの実践に役立ちます。

子孫や人類、平和のためにも日々の実践を磨いていきたいと思います。

今日から大阪の神晃講の修験者の方々を英彦山、守静坊でおもてなしします。みなさまがお山で静かで安らかなひと時になるよう人事を盡していきたいと思います。

実践の足跡

実践というのは、人知れず行っているものです。そして同時にはそれは内省と研究、研鑽の積み重ねでもあります。よく考えてみると、それは単に自分が追及していく道のようなものです。

日々に繰り返し積み重ねていく実践は、意味もなく他人の評価も関係ありません。世間では、すぐに情報として取り上げてその理由を推察するものです。しかし実際には、その推察はほとんど歪んで間違っています。私なども、色々な人から色々なことを勝手に言われますが、そのどれを聞いても当たっているものはほとんど皆無です。近いことはあっても、本質や神意はわかっていません。

それは当然であるのは、本人自身が自己というものをわからないからです。ただそこに道があるだけで、その道を通して自己というものを掘り下げている最中だからです。その途中にある自己を肩書から推察したり、その行動の一部を取り上げてきっとこうだろうと周囲が判断しているだけともいえます。

本人は、自分の天命を知り、人事を盡して真摯にご縁やお導きに従ってかんながらの道を歩むことに一生懸命なだけですからそれが色々といわれてもあまり関係がありません。しかし人間は、未知のものや異物、違和感に反応するものです。

それぞれが本来は、日々の実践を通して自己を探求していくことを真摯に取り組んでいけばいいだけでそれ以外それ以上でもそれ以下でもないのが本質ということでしょう。

暮らしというのは、その日々の実践を試す道場です。場の道場では、暮らしを通してそれぞれに學び直しを続けていくだけです。それが徳を磨くことになり、自己を知ることで徳が少しは積めるようにも思います。

最後に、今週末にご縁のある川面凡児さんの和歌で締めくくります。

「これやこの われわれにして われと知る われこそ未だ われを知らざれ」

この世の全てはあるがままに循環するからこそ、その時々の循環の妙を知る。その循環の妙の中にこそ、いのちの正体があり私たちは実践を通してその全体最適を生きるとき、自己を學ぶように思います。

先人先達の歩んだ足跡に感謝して、もう一歩前に進めていきたいと思います。

 

一期一会の生き方

私たちは御蔭様というものの存在に活かされているものです。今生きているのは、あらゆるものの存在が私を生かしているともいえます。それは例えば、酸素があることや水があること、そして太陽があり植物がありと身近な存在にも偉大な御蔭様を感じるものです。

この御蔭様というのは、言い方を変えれば見えているものに対して見えないものの存在のことです。自分を中心に考えれば、自分が生きているといことですが実際には御蔭様を中心に考えれば自分が生かされているということに氣づくものです。

現代は個人の幸福ばかりと追い求めていくような個人主義の世の中ですが、その個人が存在するのはかつて多くのご先祖様があったからです。ご先祖様たちが結ばれて子どもをつくってきたから今の自分が生きています。何もなく存在しているのではなく、そうやってみんなで子孫を繋いできたから存在しています。

そして厳しい自然環境の中でお互いに助け助け合いをしながら、いのちを繋いできたから今生きています。自然の恵みがなければ、食料もなく、智慧がなければ生き延びることもできません。

私は、鞍馬寺の前貫主に「闇のぬくもり」のことをご指導いただき教わってきました。闇は怖いものではなく、闇はぬくもりがあると。この話は、時間が経過するにつれて御蔭様の存在と似ていることに氣づきます。

目に見える光とは別にそれを包み込む闇の中にこそその歴史や時間、感謝の循環や徳が存在すると。宇宙の星々が漆黒の闇に包まれているように、私たちは偉大な御蔭様に包まれていると。

夜眠りにつくとき、私たちは静かに闇に包まれて癒されます。静かに内省をすると、どれだけの人たち、どれだけの自然に自分が助けられているかを思います。そしてその御蔭様があるからこそ、今日もまた活動していくことができます。

この場所に巡り会ったこと、この人に結ばれたこと、そして絶妙な時間をいただいたこと、どれも一期一会です。

一期一会の生き方は、ご縁を大切にする生き方ですがそれだけではなく御蔭様を生きるという生き方なのではないでしょうか。

自分がそうであるように、子孫のためにもその御蔭様の一つになれるようにかんながらの道を歩み、闇を照らしていのちの循環の一部になっていきたいと思います。

大神いにしえの田んぼ

福岡県朝倉にある旧三輪町で新たに無肥料無農薬の田んぼに取り組むことになりました。ここは、神体山の麓、日本最古の神社としても有名な大己貴神社が見守ってくださっている田んぼです。

田んぼを「大神いにしえの田んぼ」と名付けて、徳を磨く仲間たちとみんなで懐かしい未来を甦生させていきます。

昨日は、天候にも恵まれ心地よい島風を感じながらこの場所を見守ってくださっている大神(おおみわ)、この場所ではおんがさまという神様と八百万の土地神様にご供物を捧げこれまでの先祖さまたちへのご供養を禅僧の星覚さんにしていただきました。その後は、私が暮らしの中で行ういのり、法螺貝、お田植の祝詞を奏上しました。そして早乙女に苗を植えていただき五穀豊穣の予祝を行いました。

そのあとは、みんなで一列に並びお田植唄を聴きながら和太鼓や法螺貝で鼓舞して手植えで苗を植えていきました。子どもたちは泥だらけで苗をみんなで受け渡し、また素足で素手の方もいて和気藹々と田んぼで元氣をいただきました。

そしてその清めた場所で、古鉄の竈を持ち込み私たちが昨年育てた13年目のむかしの田んぼで収穫したお米を備長炭で炊き上げたものを一緒に食べました。お漬物も、私たちで伝承している在来種の高菜漬け、またみんなで他のお漬物も持ち込み直来をしました。あっという間に御飯はなくなり、残ったおこげを食べ、さらにそこにほうじ茶を入れてお米一粒も残さずに食べきりました。果物など色々とご喜捨いただいたこともあり、それを食べて最後は竹炭や備長炭を田んぼに蒔いていのりを捧げました。

帰りは、みんなで和になって一日の振り返りをして感想を語り合いました。まるで永遠の平和を象徴するような家族のぬくもり、そして笑顔、ちょうどいい慈雨が奇蹟のひと時を与えてくれました。

稲と田んぼとの暮らしは美しく素晴らしいものです。

どう生きるかは、誰もが決めることができます。しかし、その場所や機会はご縁によって導かれていきます。今回、有難いことに「いにしえ」のむかしからある由緒ある場所で、懐かしい人たちにめぐり逢い、原点回帰したお米づくりに取り組めること。

もうこの懐かしいお米づくりは私にとっては20年近くになりますが、新たにこの場所ではじまるお米づくりは心の記憶に深く余韻が残る大切な瞬間になりました。

この先は、見守りや除草、そして収穫があり稲架かけに新嘗祭などが待っています。夏至の田植えは、新たな一年のはじまりのようで心は正月気分です。元氣な田んぼで、自然に育つお米は抗酸化力が高く、単なる食べ物ではなくいのちが充ち溢れるエネルギーそのものです。

現代のように戦争前夜のような気配で、目先の競争や喧騒など賑やかですがこんな時こそ、徳を積み、徳を譲る活動によって心を保ち、平和や安寧をいのることが大切ではないでしょうか?

誰でもこのいにしえの田んぼには参加できます。

私たちの暮らしフルネスの中で、共に笑い、共に味わいたい方は、ご参加ください。

あまつみずとうまきあめふりそそぎ、 ときつかぜなごやかにふきわたる。

かんながらの道。

 

暮らしが神事

昨日は、夏至祭を行いました。宿坊をはじめその周辺の片付けをし、場を調えました。宿坊周辺は、先日の暴風で枝木や落ち葉が散乱して大変な荒れようでした。いくつかの場所では落石もあり、直系80センチほどの丸い岩が上から転がっている場所もありました。また古くなった大木も折れていたりと、自然の間引きとその威力にはいつも驚かされます。お山が大きいのと放置期間が長いため、片づけても片づけても片づけることばかりです。

古木の守静坊のしだれ桜が心配でしたが、一つも折れている枝がなく旺盛な葉をつけてはいまずがしなやかに風をいなしたのでしょう。桜とは一緒に見守り合う関係になってはや4年目ですが、植物や木々はとても正直です。お互いに思いやれば、それに応え合います。この世は、関係性によって信頼が生まれ、そして信用や信仰が醸成されます。

信じあうということや、見守り合うということはお互いが「信じる」という絆を持つために大切な行為であり人間の徳の原点かもしれません。

現代、信仰というとすぐに宗教を思い浮かべます。しかし私は真の宗教は、暮らしや文化、生活習慣に渾然一体となって根付いているものではないかと感じます。例えば、食事の時に感謝で手を合わせることや、お互いにご挨拶をしてお辞儀をすること、お布団を畳んだり、靴をそろえたり、またはもったいないやありがたい、おもてなしなどの日々に使う言葉の中にも信仰を感じます。

信仰というと、何が正しくて何が正しくないかなどすぐに対立構造や両義性ばかりが語られます。お互い様や御蔭様というものがなければ、世界の紛争や戦争はなくなることはありません。個人のレベルでさえ、人間は欲望や煩悩、権威や権力、お金の力によっていつまでも禍根を増やしていきます。

本来、それぞれが日々に丁寧に自分自身の暮らしを調えていく中で信仰の実践をしていればそこに禍根や争いは発生せず、お互いに心穏やかにいられるものです。宿坊周辺を調えたあとは、土地や場所、お山の神様、そして太陽に深く祈ります。ご供物を捧げ、いただいている恩恵や恩徳に感謝します。ご先祖様に御礼をして、お水をはじめ火や土などの精霊にも感謝します。夏至の太陽の光は、雲に隠れて穏やかでしたが確かに太陽の見守りを感じてみんなで喜びを分かち合いました。

優しい光と風が吹き抜けて、心身が調うのを実感しました。有難い静かなひと時は、いつも日常の暮らしの中の一期一会に存在します。

また沈んでいく太陽を眺める間は人生を振り返ることに似ています。この一日をどのように過ごしてきたか、どれだけたくさんの存在に助けられているか。美しいもの、善いもの、循環する徳に包まれていることなどを深く感じられます。

畢竟、私が人生で取り組んでいるのは、暮らしの中の神事です。そもそも暮らしが神事なのです。その神事は宗教ではなく、まさに暮らしそのものを神事のように生きることです。暮らしフルネスは、暮らしを神事として実行し実践することです。

今日は、これから新たな田んぼで仲間たちとお田植祭です。伝承してきた古来からの祝詞をみんなと一緒に捧げ、唄いながら、笑いながら、田んぼの元氣をいただきながら一日を暮らします。千葉の田んぼや一緒に生きる仲間たちのことを思いながら稲を一本、一本手植えしていきます。

忙しい日々の中でも、太陽や月や土を忘れず丁寧に暮らしは誰にでもできます。

さあ、これから準備万端、田のかみさぁと英彦山ガラガラをもって田んぼと遊びます。

おめでとうございます。

夏至 陰陽転化

本日は夏至で、私たちも夏至祭を行います。この夏至というのは太陰太陽暦における二十四節気の一つです。2月には冬至祭を行いましたが、暮らしフルネスでは太陽と月の運行で一年を過ごすことで宇宙自然のリズムの豊かさを感じやすいということで取り入れています。

同時に、自然界もまたこの太陽と月にあわせて生々流転しているのでその循環を味わうようにできているものです。

この夏至は「日長きこと至る(きわまる)」という意味があるといいます。冬至は陰極まって陽になり、今回夏至は陽極まって陰になるということです。

これを陰陽転化ともいいます。これは片方が最高度に達したときに他方に転化するという仕組みです。自然界はこの陰陽転化に合わせて、それぞれのいのちを調整していきます。例えば、バランスを崩して風邪を引けば高熱が出て下がり平熱に戻る。あるいは体温が冷えすぎて風邪をひくというように、この陰陽のバランスが体調維持に大きな影響を与えます。中和するために、私たちは自然に睡眠や排せつ、水分補給や栄養などを摂取して日々を生きているのです。

意識していなくても、身体は自然に陰陽調和をし続けている。これは地球も同じで宇宙も同じです。

話を夏至に戻すと、日本がある北半球ではこの日が一年のなかで最も昼の時間(日の出から日の入りまで)が長くなります。これは太陽が黄道上で最北に位置する「夏至点」を通過する日です。

夏至は世界中でお祭り行われています。太陽のお祭りですから、火に因んだものも多くなります。私たちは、宗教ではなく生活の中で信仰していますから自由にお祭りを楽しむことができます。もちろん、伝統的な神事に習いいのりは捧げますが、太陽の光から火を熾し、それを備長炭に移してこの日はずっと太陽の灯と共に一日を暮らします。

また太陽の光をたくさん浴びてこれから陰に入っていく太陽を深く感じます。太陽の光の豊かさは有難く、太陽がなければ私たちは生きていくこともできません。世界は色々な状況が変化して、暗雲も立ち込めていますが太陽はむかしから変わらずに私たちを見守ってくれています。

夏至を味わい、冬至に向けて陰陽調和を楽しんでいきたいと思います。