共生の道

自然というものの一つにお互いを活かしあうというものがあります。自然をよく観察しているとそれぞれが自分あるがままにいて周囲を活かします。あるがままであることでよく周囲を活かします。これはお互いの善いところを認めて共生しようとするからです。

何でも受け容れて順応していくということ、これは全てを委ねることに似ています。無理して流れに逆らわずに、自然の流れに従って委ねていくということ。これは身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれの故事と同じ境地です。

例えば、何かの出来事をやろうと決めてそれを行うときに予想もしていなかったことが色々と発生します。最近であれば、大切な行事でコロナ感染があり急に内容を変更することになりました。色々とあっても無理をしない、自然に任せて流れに任せようと柔軟に対応しましたがそれは軸があるからできることです。

この軸というのは、重心ともいえます。どこに重心があるのかが決まれば、浮いていても流されるけれど流されていないという状態になります。つまりは、浮いているけれど溺れていないということです。これを無理をして、ジタバタしたり溺れまいと力んでは必死に泳ぐとかえって流れに逆らい軸を失います。

どこかで絶対安心の境地であったり、常に全体やご縁や初心などの本質や布置を見失わないように重きに任せていると自然にその時々の最善に出会います。最善というのは、ある意味諦めの境地であり委ねている境地です。この諦めや委ねるというのは、いのりに似ています。人事は盡すけれどあとは天命にお任せするということです。

私のメンターの一人は、この信楽の境地を「全てお任せ」と表現して体現しておられました。別の言い方では、お気楽極楽だとも。その実践をするのは、如何にいただいているものや存在に感謝しているかという心の在り方にもつながります。

松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「自分も生き、他人も生かす」

「意見が対立すると、ともすると我を張って人に自分の考えを無理強いしがちである。あるいは反対に、投げやりになって安易に妥協する。しかし、両者の良いところを生かしあってこそ、より優れた考えにもたどり着けるのである。何事においても、自分も生き、他人も生きる道を求めて歩みたい。」

対立しないというのは、和合しているということでしょう。そしてこの和合とは、善いところを活かしあう、自他共に生きる道、つまり共生の道を歩もうということでしょう。

自然は、常に共生の道の上にいます。そしてその道を、ずっと子々孫々が続いていきます。私が生れる前よりあったものを、今の時代でも自分の人生でも生き切っていきたいと思います。

ご縁と経験

今、その人が何をしているのかをよく観察するとそこに至る前の経緯の中で学びや変化がありそこに至ったことがわかります。私たちの人生において、経験というものは人生を決める大切な要素です。頭で考えたようにはいかず、そして思った通りにもいきません。しかし経験した事実は、その後の人生にとても大きな影響を与えていきます。

そして経験とは何かと見つめるとそれはご縁であることがわかります。人とのご縁、自分とのご縁、亡くなった人とのご縁、物とのご縁、時とのご縁、環境や場とのご縁などあらゆるご縁が結ばれて今に至ります。

そもそもこのご縁というものを辿る時、私たちは経験を辿っていることが分かります。経験がご縁であり、ご縁が経験になっているということでしょう。

ではどのようなご縁を結びたいと思うのか、どのような経験をしたいと願うのか、それがその人の初心でもあり理念になります。

自分のことを遡って辿ってみると、産まれたときにこの世を観ては聴いていたものとは違うという感覚を最初に覚えました。そして何が違うのかと色々と見つめては常識に反発してきました。しかし、祖父母や両親、幼馴染や友達、犬や動物や虫たちなどと触れ合い、学校にはいり日常を教え込まれていきました。海外に飛び出してからは自分で考えてこれからの世界のこと、日本のこと、未来のことを真摯に悩みました。環境問題に向きあい、健康問題に向き合い、そして子どもたちの環境のことに向き合いました。仕事もそれに合わせて変えていきました。その道中に素晴らしいメンターたちに出会い、死生観、歴史観、大局観、宇宙観などを学びました。それを合わせたものを「徳」として、その徳が循環するような世の中にしたいと思い今に至ります。

ご縁が何と結ばれているのか。何の経験をさせていただいているのか。

因果の中に、今の人生があります。

子孫のためにも、さらなる経験を積んでよいご縁を循環させていきたいと思います。

供養する喜び

「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」が無事に終わり、多くの方々から御礼や感謝の声をいただきました。その一つに「供養する喜び」がありました。

もともとこの「供養」という言葉は、古代インド語の一種であるパーリ語では「pūjā (プージャ) 」が由来だと言われます。 この梵語は「尊敬する」や「崇拝する」という意味です。

今回の懐徳堂の甦生では、みんなで火鉢を囲んで車座になり供養祭での學びや氣づきと合わせて自分の尊敬する人や崇拝する人の話をしていただきました。

ある人は、祖父であったり、ある人は郷里の偉人や長老であったり、またある人は身近な友人であったり、先祖代々が宿っている自分であったりとその理由を語ってくださいました。またこれから300年先のことを考えてみんなで何を実践して変えていくのかを傾聴しあうことができました。

300年前に懐徳堂が創設したとき、その初代學主はそこで「人の道」を學びの中心に定めました。人の道とは何か、それは「徳」のことです。つまり私たちは徳を學ぶことで道を知り人と為るということでしょう。

ではその徳とは何かということです。

もともと「徳」という字は「直線」の「直」と「心」を組み合わせた「悳」と書き「まっすぐな心・すなおな心」を表していたといわれています。その後、「彳(ぎょうにんべん)」を加えて「まっすぐ正しい行い、真心の実践」のことを指すようになりました。

この徳というものは、自然でいえば最初から自然に備わっているものということです。海も山も空も、水も太陽も宇宙も私たちができる前から存在していたものです。一番最初は何か、それは最初から「あったもの」ということになります。この元々あったものをそのままに使えることほど仕合せなことはありません。

しかし人間は、三宅石庵が言うように現実に生れてきた後は気質の偏りや耳目の欲望によって人は自分の生まれつきの「道」を失ってしまうこともある。それらの刷り込みに流されずに自分自身に具わった徳を決して失わないのが「聖人」であると。

私たちは聖人というと、偉い人や立派な人のことを思い浮かべます。しかし実際にはは、この一生の中で最期まで徳を失わなかった人、徳を遣りきった人のことを指すように思います。

論語の中で孔子の弟子の曾子はこう言います。「吾(われ)、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」と。これは私の師匠でメンターの方も座右の銘にされています。

懐徳というのは、徳を心に深く省みるということです。これは内省によって徳を磨こう、改善によって徳を積もうとすることでもあります。

時代が変わっても、普遍的な道はいつまでも変わることはありません。道が無窮であるように徳もまた無窮ということでしょう。

供養を軸に徳が循環する未来の甦生やブロックチェーンの持つ経世済民の可能性などについて学び合いましたが徳に包まれそれぞれの道を明らかにする素晴らしい場になったこと心から感謝しています。

暮らしの中で如何に私たちは「当たり前」のことを丁寧に紡いでいけるのか。変革は常に小さいところ、弱いところ、一人からはじまります。

故 清水義晴氏の魂に供養のいのりを捧げたいと思います。

ありがとうございます。

徳は永遠の道

「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」を無事に開催することができました。有難いことに徳を実践する方々やこれから取り組もうとする方々が集まり温かい雰囲気に包まれた「場」になりました。

最初は、みんなで場を調えることからはじめ蜜蝋などで場のお手入れをしました。そして床の間に集まり法螺貝奉納後、懐徳堂の創設者や學主をはじめ関りの深いご縁のある方々と、この活動を深く支援してくださった方々、また参加者のご先祖様たちをご供養して念仏とご焼香をみんなで行いました。

会場を移動し、真ん中のテーブルをみんなで囲んでシンポジウムを行いました。シンポジウムでは、懐徳堂のその当時の歴史的背景や人物模様、また資本主義がはじまったころから今の成熟していくまでのプロセスでそれぞれの人物たちが何を思い、どう語ってきたかなど先人たちの遺徳を偲び学び直しました。人と人の繋がりの中にある徳を積む話にはみんな深く共感していたのが印象的でした。また贈与や布施、徳積という人間本来の結び合いから新しい技術を通して懐かしい未来やこれからの可能性についても話しました。また世の中の変革は、上からではなく底辺から一人からというのも印象に残りました。

ブロックチェーン経済のところでは、この2年間の私の徳積帳の経過や反省点や課題点、そして可能性や思いなどについて話をしました。同時に、本来のブロックチェーン技術は循環や徳積であることが望ましいこと、技術の前に人間が自分に打ち克つことの価値などを同志や開発者から話がありました。

その後は、みんなで車座になって火鉢を囲み懐徳堂の甦生を試みました。34名ほどの参加者が、それぞれに尊敬する生き方や今回の学びで気づいたことを語り合いました。涙する人もいれば、深く自省している人もいて、またそれぞれの言葉に励まされ元氣や勇氣をたくさんいただいたという言葉が多かったのも印象的でした。それぞれの場で、それぞれに挑戦している人たちだからこそ一人ではないと実感されたように思います。

最後は、直来をして朝から地下水と備長炭で竈で炊いたむかしのお米のおむすびと、伝統在来種の高菜や自然食の副菜、きのこ汁をみんなで食べてとても豊かな時間を過ごすことができました。おやつには、日本最大饅頭の柏屋さんのお饅頭をいただきました。

多くの徳積スタッフがお手伝いいただき、居心地のよい場をつくってくれています。BAでは自然農の畑や田んぼのように、多くの自然に見守られ健やかにいのちが育つ場が醸成されています。有難いことで、自然の叡智には感謝しかありません。

論語に、「徳は孤ならず必ず隣あり」という言葉があります。

まさにそれを実感する素晴らしい一日になりました。懐徳堂も300年前、「人の道」を大切にしようと志してはじまったといいます、先人たちが志たような場をこれからも何度も甦生していくことでその遺徳を継いでいけるようにも思います。

長い時代のなかで、人はずっと人の道を大切にしてきました。少し時代が揺さぶられて道から離れてもそれもほんのわずかな時間です。また原点回帰して元の道に戻れば、そのあとを子々孫々たちが歩んできます。

徳は永遠の道です。

引き続き、場を磨き、場を調え、場と和しながら徳を積み、子どもたちのために今できることを真摯に有難く取り組んでいきたいと思います。

 

學問の宝

私たちは何かを知ろうとするとき、どこかで借りてきた知識を持つのと自分の身体で体験して得ている知識とでは異なります。自分の体験からの知識であれば自分の身体と一体になっていますから自然に思い出すことができますし引き出しにいつも入っています。

しかしそれを誰かに借りたもので、自分の身体の外に置いていればそれがなくなったり繋がらなくなれば出てきません。このパソコンやインターネットとも似ていますが、データが破損したりインターネットにつながらなければ出てこないということです。

また知っているのと、実行してきて知ったのとではまた内容も異なります。経験から得た教訓は体に刻まれますが、ただ頭で理解しただけの教訓では真実味が起きません。しかし頭で理解したものを暗記しておけば、それが時間をかけているうちにある時点で色々な体験が重なり自分のものになるというものがあります。

論語の素読でったり、家訓の唱和であったり、理念の確認においても同じです。繰り返し繰り返しているうちに、磨かれて玉になるように少しずつ拭き掃除をしていくようにそのものの徳や正体に気づくというものです。

學問の醍醐味の一つはこの繰り返していくなかで突然ハッっと気づくという面白さです。まるで最初から知っていたことを思い出すような感覚、つまりは目が覚めるというような感覚を得られるのです。

目覚めというのは、何か、それは朦朧とした状態からはっきりと覚醒するということです。周囲に流されず、自分の道を発見し迷いがなくなることに似ています。この世の中をはじめ人は様々な誘惑があり迷います。特に目先の判断というのは、どちらがよいのかよく分からないものです。そういう時は、遠大な航路の先にある北極星や太陽などをみつめて歩んでいくのでしょう。

自分の身体の中に、どれだけ深い体験をするかはどれだけ時間をかけて労苦を惜しまずに學問に勤しんだかということが問われます。時間をかけて労苦を惜しまずに取り組んできたことは、その人にとっての學問の宝です。

先人たちの生き方を習いながら今でもその學問の豊かさを愉快に味わっていき子どもたちに伝承していきたいと思います。

場の流儀

「場の道場」では、そのほとんどは場を磨き調える実践ばかりに取り組みます。仕事をしやすいような環境はありますが、仕事の前には常に場を調えるためのお手入れやお掃除をしていますからいちいち長い時間がかかります。

通常、都会のオフィスでは掃除屋さんが入っていたりしてゴミも綺麗に片づけられて翌朝、出社したらすぐに仕事だけをします。あとは、時間に追われながらひたすらに仕事をするだけです。

しかし私たちの「場」は、自分で掃除しお片付けも自分です。室礼をはじめ、お花の手入れや畑の草取り、あるいは妙見神社などの掃除やお水換え等々、やることが多くてすぐに仕事ができません。忙しい人には向かない場所です。またお昼ご飯も畑で採れたもので工夫して調理をし、みんなで一緒に食卓を囲みます。お茶もお菓子も、みんなでゆったりと食べて片付けます。その時々の気づきや振り返りや対話も大切にして脱線することばかり。一般的なオフィスとは対照的に時間がゆっくりと穏やかに流れます。

頭を使う仕事には、心はいらないという具合に都会での仕事は時間ばかりを優先してあれやこれやと短時間に詰め込みます。頭がいいことも一つの才能かもしれませんが、その頭が心を使うことは決してありません。頭は頭だけで完結しています。しかし心は頭を用いることができます。私たちは心が先で、そのあとにあらゆる能力を活かせるようになっています。その中心になっている、心が不在では何をしても「場」はできません。

そもそも「場」とは何かと私に聴かれると、私はいま取り組んでいるむかしの田んぼであったり、畑のことをたとえて話します。かれこれ15年ほど、自然農でお米も高菜も育ててきましたが今では田んぼや畑がちゃんと育って自然に育ちやすい場になっています。つまり「場が醸成された」ともいえます。

その場の醸成は、頭であれこれと時間を惜しんで仕事のようにやってきたわけではありません。むしろ、手間と暇ばかりをかけてお田植祭や新嘗祭など数々の祈り、また直来でみんなでお結びを食べたり笑いあったり予祝したりと楽しんできました。畑もギターを持ち込みライブをしたり、法螺貝を吹いてはご挨拶と祈りを続けました。そのうち、いい生物仲間たちが集まり今では肥料も農薬も何もしなくても自然にいいお米も高菜もできてきます。心を磨いて調えるいるうちに土が易変わったのです。もちろん、作業をしていないわけではありません。しかし先に心を用いてからやっているというだけです。ふざけたように仕事をしては、真剣に真心を籠めて今の暮らしを磨いてきただけです。

本来、私たちは「場」というものを観るとき何を観て果たして場と呼んでいるのでしょうか。私から見ると、世間では場と謳っていてもこれは場ではないなぁと思えるものがたくさんあります。否定するわけではなく場の中心をどこに置いているか、見た目だけで人が集まれば場ができるというのはそれは場の側面の一部の結果の話です。

私の思う本来の場は、「心の場」です。心の場とは、心を磨き、心を高め、心を研ぎ澄まし、心を豊かにし、心を和ませるものです。だからこそ、面倒だと思われても私はいちいち丁寧に暮らしフルネスを実践して場を一緒に磨いていこうとするのです。

場を磨くことは、自分の心を磨くことであり、自分の心を洗い清めていくことで場も清浄になっていくのです。これは随分むかしに仏陀の弟子の周利槃特がすでに実践をして背中で教えてくれている智慧の一つです。別に仏陀が偉いからではなく、心の穢れを祓うことで心を和ませることができるという場を掃除で実現した事実のお話ということでしょう。

智慧の素晴らしいのはやってみるとすぐに気付きます。しかし智慧をおざなりにしていく理由は簡単で「忙しい」からです。忙しい人に智慧はありません。つまり心を亡くすと智慧が用いることができないからです。亡くしてしまうと智慧が働かず、場ができませんのでまずは心を甦生させることから実践させるというのが私の場の流儀です。

明日の「300年供養祭」の「場」をみんなで調えますが、ご供養するのは心で行うものです。みんなで心を磨いていく善い場にしていきたいと思います。

計算というもの

私たちは日々の生活の中で無意識に足し算や引き算をしています。あるいは掛け算をしたり割り算もしています。それは自分を中心に物事を計算しているということです。何かあれば計算をし自分が割に合うかどうかを考えているともいえます。割に合えばやり、割に合わなければやらない。貸し借りなどもそれで計算したりします。

これをまた別の角度から見るとある人は、足るを知り引き算で生きている、またあるい人は、もっともっとと欲望を足し算で生きるというものもあります。これは根底にその人の生き方が関係していて、同じ計算であってもどんどん貧しくなるものもあれば豊かになるものもあります。つまり計算とは生き方そのものということです。

また物質的な世界では足し算や掛け算というのは増えていくのに最適な計算方法です。物は目に見えますからそうなります。富も財産を増やすにも足し算と掛け算です。しかし心の世界になってくると、目に見えませんから引き算や割り算などが用いられます。足すよりも引いた方が、物ではない心の方が増えていくからです。物と心は同じ豊かさであっても、反比例することもあります。物と心を両面が豊かになるというのは、バランス感覚があるということでしょう。それは比べるのではなく、生き方の尺度が定まっているということかもしれません。

例えば、私たちの身体のことを考えてみます。

ある人は栄養をしっかりととっていくのがいいと信じて食べすぎ飲みすぎに加えビタミンなどをサプリで摂取します。またある人は一汁一菜で腹八分目、自然で採れた野菜や野草を最小限のものだけを摂取します。貨幣経済が跋扈する世の中ではお金があると、選択肢がいくらでも増えますがどれを選ぶかはその人の自由です。

この計算というのは一見、とても便利で合理的ではありますが敢えて計算をしないということも不便ですが実は「真の合理性がある」ともいえます。この真の合理性とは例えば日本人本来の美意識であったり、見返りを求めないで天命を全うすることであったり、運をよくするために徳を積んだりというものです。

私たちが計算するのは、自分をその尺度に入れて計算します。本来宇宙や自然は計算されているのですが計算をしていません。人が計算をしようとするとき、その計算によって自然の計算から外れてしまいます。自然の計算から離れるとき、損か得かばかりを憂うようになるのでしょう。計算外のことが起きることを怖がり、如何に計算取りにいくかをみんながやっていたらこの世はとてもアンバランスなものになります。

それが富の集中にも出てきているのがよくわかります世界人口の5分の1の人々が世界の所得の82.7%を所有して、世界でもっとも貧しい5分の1の人々は、世界の所得の1.4%しか所有していません。計算の成れの果てにつくり上げた世界が、今の富に帰結しています。

本来の自然というものは、自分の自然天命を生きるとき同時に周囲にも天命の豊かさが享受される仕組みになっています。これは計算外のようにみえますが、実は宇宙の尺度で計算通りです。その計算が乱れれば、天候不順や自然災害などで調整します。

私たちの心臓の鼓動がやまず臓器が協力し合って身体が健康を保つように、自然の計算は見事に調和しています。それを敢えて崩そうとすれば、身体もその分疲弊しますし、健康を害していきます。今の世のなかの経済というのは、如何に一部の人間の計算取りに事を運ぶかということに執着があります。

自然に計算されているのだから計算は任せるという生き方は運命を好転させていくようにも思います。ご縁を信じて、ご縁のあるがままに任せていくとこの世を去り土に還るときも計算通りぴったりということでしょう。そんな自然天命に委ねることができる人は、後世に偉大に役立つような偉業を為す人が多いように思います。學問とは、畢竟、そういう生き方を磨くための砥石のようなものかもしれません。

別に自分の思い通りの計算通りということが悪いとは思いませんが、計算にはいちいちその人の生き方がにじみ出てくると思うと計算という意識自体を磨いていきたいと思うものです。

どんなことがあってもすべて計算通りと笑って明るく今を生き切る生き方は自然計算を学んでいるのかもしれません。自然の生命に習いながら、道を歩んでいきたいと思います。

自然學問の実践~場の道場~

もともと私たちは自然からあらゆる原理を学びます。その理由は、私たちは自然に活かされ自然がなければ生きていけない存在だからです。この水も空気も太陽も植物も土も微生物もすべて存在しているから私たちの肉体をはじめ精神は健康を保つことができます。その自然の恩徳をいただき存在するからこそ、私たちはその恩徳の存在の根源は何かとその自然學問への探求心が磨かれていくようにも思います。

この自然というのは、言葉で切り分けた自然ではありません。自分も入っている自然ですからもっと突き詰めれば自分というものも存在しない、あるいは自分も渾然一体になっている自然のことです。

その自然の原理というのは、観察によって磨かれます。農などはまさに観察の學問です。自然のハタラキのありとあらゆるものを観察して察知し、その原理を活かして暮らしを成り立てます。むかしの人たちは当たり前に學問に励み、自然に精通していたともいえます。

そして同時に人間のことも観察します。人間の存在が顕す自然の原理をよく観てそれを「孝」として察知し學問を磨きます。人間の徳が、孝によって磨かれ高められ自然に深く厚く循環を恩恵をめぐらせることを発見します。

発見した原理を如何に実践するかというのが、この世の中の経世済民家であり今では経営者といわれる人たちかもしれません。経営者は、自分の経営からということであれば世界人類皆経営者ということになります。

論語大学に、明徳の道はとありますがまさに自然の道はと言い換えれば孝の実践です。人間がいつまでも自然のままであること、これを古来の日本ではかんながらの道とも言いました。

また原理を具体的に実践した人に、二宮尊徳先生がいます。

この方に「たらいの水」理論の実践があります。これはたらいを使って、世の中が丸くなっていること、つまり自然が一円であることを説きました。今では地球を外からいくらでも科学的に観察できますからこの原理は自然の原理であることはもう誰にでもわかります。その中で、二宮尊徳先生は「欲心を起して水を自分の方にかきよせると、向うににげる。人のためにと向うにおしやれば、わが方にかえる。」とし、贈与していく実践を見せてはそれが如何に循環して最終的な偉大な恵みになって帰ってくることを可視化しました。

この思想は、一円観ともいい私もこの思想の原理と同じ意識で徳が循環する経済を実現させようと挑戦しています。これを「場」に投影させるということが、今の私の実践です。

そのため私が「場の道場」を創設して、場のハタラキがどこまでその徳を循環させるのかを観察する実験場としているのです。

今回、その実験の一つの節目としてどのような働きがあるのかがまた新たに観察できます。たらいの水の理論は、私に言うとまず一円であること、そしてお水が宿していること、そして循環すること、さらには浮かんでいるということ、最後はそのたらいそのものが生きているということが重要です。

徳は永遠に巡り、それが子々孫々へと恵みます。

今の時代だからこその面白さを、學び治していきたいと思います。

暮らしの灯

私たちの文明はかなりの発展を遂げて今があります。国家というものが世界にここまで乱立し、世界は交通手段をはじめインターネットも普及し情報で結ばれ、宇宙開発も盛んで宇宙から地球を眺めるほどです。金融で象った経済も全人類のほとんどをカバーしています。そして医療をはじめ、工業技術はAIの誕生によりますます緻密に向上していくのでしょう。

私たちが何かを得るとき、同時に何かを失います。両方を失わないというのは、中庸をとるということでそれは人間力を磨き高めるということを選択するということです。

かつての人類、いや始まりの人類はどうしていたのだろうかと思いを馳せます。

すると、そこには自然と共生し暮らしを積み重ねてきた人類の姿を想像できます。最初は国家というものもなく、文明もありませんでした。きっと今の野生の動植物のように本能に従い、暮らしを循環し永続できるように自然を観察し活かして日々を生きたのでしょう。

このむかしの暮らしで考えてみると、現在、在来種の高菜を栽培してみて気づくことですが1200年も前に日本に伝来してから今までこれが保っているのは毎年、いや毎日の暮らしでこの高菜を見守り育てた先人たちがいることはすぐにわかります。

この種の発芽率を思えば、もって数年です。その間、植え続けなければこの高菜という野菜は終わってしまいます。私たちは自然と共生することで今食べる野菜が享受されているということです。いくらその間に、戦争が起きようが異常気象で地球が冷えようが諦めずにコツコツと暮らしを営んできたから今も生きているということです。

そう考えると、私たちは今の文明の前にあったものは暮らしだったということでしょう。この暮らしは怠ると滅んでしまいます。先ほどの高菜であれば、いくらお金や銭が大量にあっても誰かが暮らしの中で見守り育てなければそこで終了です。種が消えたら、復活することはまずありません。それが絶滅ということです。

現在、地球では日々にこの瞬間にも種が次第に絶滅しています。これは何が失われているかといえば「暮らし」であることは間違いありません。種が消えるということは、自然と共生して守り続けてきたそれまでの「暮らし」が消えたということです。

私が「暮らしフルネス」を実践していこうと提唱するのも、種に大きな影響があるからです。少子化の本当の問題もまたこの暮らしにあります。暮らし方が変わり、暮らしをやめているから種が消えるのです。

人口が増えているのは、在来種を守る暮らし、自然と共生する暮らしをやめているからです。工業のように大量生産し標準化すると種も増えます。しかしその種は、何万年も維持してきた自然の種ではなく人工的な種ということになります。人工的な種はその場しのぎですから長くは持ちません。それに人工的なものは、自然との共生が難しくそのために大量の費用がかかります。人類は、銭金を追い続けて増やしてきたからこそこの負のスパイラルから抜け出せません。

だからこそ、今こそ原点回帰して「暮らし」を換える必要があると私は感じるのです。この時の暮らしは、暮らし方の転換であり、生き方の転換です。日々に何をすることが自然の循環となるのか、もっと言えばどう生きれば徳が循環するのかを意識して暮らしを改革していくのです。

そのうち人類は、自然と共生することが暮らしでしかできないことに目覚めます。すると、文明を否定することではなく中庸であることを尊ぶ新しい意識が誕生します。両方をとればいいということです。

しかしそうあるには、暮らしとは何か、暮らしを新しくするのはどういうことかから始める必要があります。それくらいこの数百年の教育や変化のなかで私たちはそれを捨ててきたからです。捨てたものを拾い新しくすることが、人類の夜明けには必要だと私は感じています。

実はこの暮らしは、誰にでも変革できます。一人でもできます。むしろ一人でやるものです。どんな時も私たちは自然が味方になってくれています。思い出して忘れたことを思い出し、今ならどう新しくできるのか、時代時代に普遍的な道を求めた人たちが闇夜を照らすものです。

子どもたちのためにも、暮らしの灯をともしていこうと思います。

自然から學ぶ

懐徳堂に関わり、改めて麻田剛立先生のことを深めていると學問への真摯な姿勢や自由で独創的な取り組みに感動します。懐徳堂でも鵺学問といわれ、あらゆる分野の善いところを取っていると揶揄されたと言いますが本来はそれが學問の本質ではないかと思います。

今は専門分野に分かれ専門家が特別な学問の人のように語られます。しかしよく病を見て全体を見ずのように一部の原因だけに詳しく全体のことがわからなくなることもあるように思います。業界が分かれて、業界の中だけの人になるということは往々にしてよくあることです。

実際に何かを究めていこうと取り組むと、ありとあらゆることがアンテナに飛び込んでくるものです。例えば、いのちを調べていこうと思ったら微生物やウイルスなど目に見えないものから具体的な植物の成長や動物の発達、あるいは宇宙や星々の運行などにまで興味がわくものです。

麻田剛立先生は、天文学をしながら医者で生計を立て日本では三番目に古い人体解剖書『越俎弄筆』を懐徳堂の中井履軒先生とも行いました。39歳で脱藩をして大分から大阪へと移住し、そこで自由に天文学の研究をし先事館を創設し弟子たちを指導しながら道を拓きました。5歳から太陽と影の関係を観測し、ケプラーの第3法則を発見したり、月のクレーターを含む月面地図を日本人で初めて観測し画きました。孫弟子には伊能忠敬先生に結ばれこの生き方や思想がのちの日本地図を完成する偉業につながります。

どの時代の学者も自分の理論や理屈にこだわっている人ばかりですが、この麻田剛立先生は自分の理論や理屈には囚われず何からでも学びました。また自分の観測結果や学習した理論を惜しげもなく自由に公開していたといいます。名誉や出世などに影響を受けず、自由に學問に没頭し、生涯謙虚に純粋性を大切になさっていた人柄が偲ばれます。

そういう麻田剛立先生だったからこそ、三浦梅園先生も心から信頼して一生を信じる友となっていたように思います。我執よりも純粋に學ぶ姿は、私たちに自由の本当の意味を気づかせてくれます。

自然から學ぶということがどういうことか、先人の生き方や生きざまから學び直していきたいと思います。