理念研修とは何か

最近、現場で理念を研修しているところの話を聞くことがあります。しかしこの理念という言葉は、使っている人によってその言葉の定義が全く異なることに気づきます。それは経営という言葉も同じく、使う人の生き方や考え方によってまったくその意味が異なるのです。

これはその人が話す理念や経営の意味や定義、それ自体をどのように理解しているかで言葉の意味が変わります。これは例えば、本気や覚悟なども同じくどれくらい本気か、何が本気か、覚悟とは何か、覚悟を決めるとはどれだけのことを言うのかと同様にそれはその人の生き方や生き様を反映するものだからです。

しかし先日、拝見した他の会社が取り組んでいるという理念はとても生き方や生き様を反映したものではありませんでした。教科書的に単に一つのルールを覚えさせ守らせるだけのような理念の使い方、冊子を作るだけでそれを活かすことがない。しかもそれを最初に破っているのが経営者となれば一体誰がそんな理念に着いてくるのかということです。縛るものを開放するのが理念であるという人と、より縛るために理念を使う人もいる。結局は理念は道具と同じく使う人にとっては薬にもなれば凶器にもなるということです。

また同様に色々な企業が理念経営の研修などをやっていますが、果たしてそれが経営者の嘘偽りない本心からの本質の生き様や初心を記されたものか、本物かどうかを確かめるにはその理念を取材する人間の理念への定義がどうなっているかをまずは確認する必要があると私は思います。

理念を取材する人間がどのように理念というものを定義しているか、そしてその人は理念に正直に生きているか、理念をどれだけ大切に実行できている人かということが大切だということです。

形骸化する理念や、現場で使われない理念は文字通りスローガンでお飾りです。理念はコピーライターが取材するものではなく理念経営を実践する経営者しかできないものです。言葉を操るだけならそんなものはかえって言い訳の材料になったり、人々の不平不満の材料に用いられます。そのようなはっきりと定まっていない状態の理念をいくら研修を現場に何回もしても、浸透させたものがそもそも定まっていなかったのならばそれでは逆効果にもなることもあるということです。

だからこそ理念を聴くということはその人の遺言を聴くくらいの一大事だという認識を持つ必要があると私は思います。遺言がもしも間違っていたら、亡くなった人も報われないかもしれません。本当にその人が意図したこと、その人が心の奥底から願ったものだからこそ、その言葉には真実が宿り力が発揮されるのです。それが理念の本質なのです。

そもそも理念を扱う仕事をしているのなら、まずは自分自身が理念に向き合って正直に取り組み、その取り組む姿勢のままに理念に取り組む人たちに覚悟を決めさえ応援し支え見守り続けなければなりません。

結局は人間は、すべて生き方からはじまり生き様の間でこの世の使命を果たすのですからその初心を最期まで貫徹させてあげることが本当の思いやりになります。だからこそ人は生き方を通してお互いを磨き、生き様を通して協力し合い夢を生きる仕合せに出会うように思います。

そして何よりも理念研修で大切にするのなら、理念を高所から掲げて下に振り下ろすような凶器のような使い方をするのではなく、経営者自身がもっとも低所におりてみんながしっかりとその理念を理解してくださるように自分自身が説明を丁寧に根気強く行い、粘り強く伝え、そして自分自身に至らないところがあればそれを反省し自らが謙虚に修正していくかありません。当たり前のことですがトップとはもっとも高いところにいて偉そうにするのではなく、何よりも自分に素直になって謙虚に反省を怠らないで努力する人物になっていくことです。これをリーダーとも言いますが、このリーダーやトップもまた生き方ですから言葉の意味が使う人物にとってまったく異なるのは気を付けなければなりません。

子どもたちを観ていたら生まれながらに何のために生きるのかを学ばされ、どう生きるのを真摯に歩むのを感じます。それをもっとも身近で導く大人だからこそ、私はこの理念という言葉と真摯に向き合い子どもに恥じない位置で受け止める必要があると思うのです。

言葉を使い分ける前に、その言葉の大前提の自分の初心と向き合うのが理念研修なのです。

森信三氏の言葉です。

「人間の値打ちというものはその人が大切な事柄に対してどれほど決心し努力することができるかどうかによって決まる。」

人を導くことは、生き方を与えることです。引き続き、私たちは私たちの信じる子ども第一義の理念を磨き、仲間と共に本物の理念経営、つまり初心伝承を支援していきたいと思います。

借り物

加齢と共に体の調子が悪くなることが増えてきました。というよりも、体の声を聴くことができるようになってきたといってもいいかもしれません。「今日の体調はどうかな」などずっと若いときは少しも考えたことがないほど健康でやってきました。やりたいことがあればそれをやる、そしてそれをやるだけの十分な体力がついてきていました。

しかし次第に疲れが取れにくくなったり、あちこち痛みやすくなったり、無理をした古傷が傷んだり、体が今までと同じようには動かなくなります。そう思うと人生を80年で割ったとしてもちょうど40年くらいをピークに、衰退していきはじめるとも思えます。そのピークの時が更年期でもあり、体も他の心と精神の元氣のバランスを保とうと揺らぎ始めるのかもしれません。

元氣には様々なものがあり、よく気力体力精神力などというようにあらゆる力の源になっています。生き物はすべてどこかからエネルギーを転換して、元氣を発揮していくとも言えます。その元氣を発揮するために、あらゆるところから力を捻出してきますが何度も何度も使っているうちに劣化していきますからそれ相応の力を別のところから借りて元氣を維持していくものです。

若いときは、親からお借りして頂いた力をそのまま使い切っていく。そして次第にその力が失われ周囲の仲間や友人や愛する人たちから頂いた力をお借りしていく。そしてさらには世の中や自然の力、そして他力をお借りしながらまた力を使っていく。最後は借りたものをお返ししてこの世を去っていき次の時代の力の礎になっていく。そうやって力は借りたものをまたお返しします。そう考えると、力の本体とは何か。それは「借り物」であることに気づくのです。

この体もこの力も自分のものと錯覚しがちですが実はすべて借りた物なのです。その借りたものを大切に預かり、それをお返しする。そして次の人たちや生き物たちがその力をまた借りて生きていく。借りたものが循環しながら私たちは元氣をいただいて暮らしているということです。

自分の力だと何でも思い込み、不平不満を言うのはこの借り物であることを忘れているのかもしれません。大切な借り物だからこそ、丁寧に大事に手入れしながら使い切っていく。それが力を使う、つまり力を活かすということでしょう。

体の声を聴きながら、借りものを粗末にしないよういのちを大切に元氣をいただいていることを忘れないように謙虚に素直に生きて子どもたちの力に譲っていきたいと思います。

思いの手入れ

人間は自分の前提になっている「思い」に気づいているかどうかはとても重要であるように思います。この「思い」が、現実を変える唯一のものであるからです。

そもそも現実とは自然と同じく中立で中庸です。それはこちらの都合で変えられるものではありません。しかし現実は変わらないからこそ、自分が現実に対する思い込みや刷り込みを変えることができるのなら現実は変わって見えるものです。

ある人は、毎日仕事をするのが楽しいと感じ、またある人は毎日仕事をするのが苦痛だと感じる。同じ現実であったとしても、その前提になっている「思い」次第でまったくその人生が変わっていくのです。

ある人はせっかく奇跡のように生まれてきたのだから仕合せに楽しく生きようという「思い」がある人は現実は歓びの連続です。その逆に、何でも当たり前になって不平不満ばかりの「思い」がある人は苦痛の連続です。しかしそれもまた「思い」によって感じ方が異なるのです。

この「思い」をどのように手入れし続けるか、ここに人生を左右する鍵があるように思います。ないものねだりをするとすぐにこの「思い」はネガティブになります。あるものに感謝してすべてが善いことになると信じて生きている人は「思い」が楽観的になり幸福を感じています。

つまり人間は、生き方によってしか現実を変えていけず素直になることでそれを維持していくことができるということになります。では素直にならないのはなぜか、それがエゴや私心、自分の思い通りにならない不満や不安から発生するのは明白です。

素直になるというのは、本来の生まれてきた歓び、人生の仕合せをあるがままに嬉しい楽しい仕合せと感じることです。これを天国言葉と言った人もいましたが、松下幸之助さんは「自分は運がいい」という言い方もしました。

運が善い人はどんな時も「思い」が素直なままです。言い換えれば、素直だからこそ運がいいのです。自分がここまで生きてこれたことへの感謝や、多くのご先祖様たちが助けてくださったことへの感謝、今の人生が丸ごとで素晴らしいことになっているということへの感謝など、有り余る感謝の「思い」で満たされているからです。

感謝で「思い」を満たしている人は、邪念や刷り込みを受け難いように思います。「思い」をネガティブの方へ向けるか、その「思い」を感謝に向けるか。「思い」の手入れこそが省我の実践なのかもしれません。

日々我が身を省みる・・・子どもたちの一度しかない人生の思いを大切に守り続けていきたいと思います。

いのちの根源

火鉢で炭を使い何度もお湯を沸かしていると、炭の個性や特徴によって火の扱い方が変わってきます。そもそも火を扱うということは、水を扱うことと同じように人間が自然の持つ力を調節して利用するということです。

むかしはこの火や水や土などを精霊と呼び、生きている存在として接し崇めていました。現代では一般的にはガスや水道など簡単便利に火や水を利用できるようになりあまり精霊という意識を持つことがなくなりましたが神社や信仰の山などでは今でも神様として大切に祀られています。

古代日本ではこの精霊をどのように定義していたかウィキペディアには下記のように紹介されています。(原文まま)

『古代日本では自然物には生物も無生物も精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた[2]。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日霎貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている』

もともと古代の日本語では「チ」や「ヒ」、「ミ」などといった一文字の中に根源的な精霊を定義して言語化したといいます。「チ」はその伝承されているいのちの原点のことを顕しているように「ヒ」は、太陽や光などのいのちの熱光源を顕していました。「ミ」などは、変化や受容するものなどを顕しました。

つまりは古代の人は、言葉でそのものを認識するのではなく精霊そのものの力をそのまま受け取りその姿をそのまま感じ取りそれをそのまま丸ごと活かすことができたのです。

現代は文明が発展し、科学の力によって分析力を高め誰でもその精霊をコントロールできるように便利にしていきました。しかし大きな災害や、地球規模の自然変動を観ると私たちがコントロールしたのはほんのたった少しの一部分でしかないことが分かります。

実際には活かしていると思っている精霊の力も、それは傲慢に使いこなせていると思い違いをしているだけで本当はもっと偉大な力だったものを受け取ることができなくなっているかもしれません。自分たちの進化は実際は進歩ではないかもしれないと疑う必要があるように私は思います。

科学では証明されないことを宗教だインチキだとすぐに価値観で裁く前に、古代の人たちが何を観て何を活かしてきたか謙虚に学び直す必要を感じます。そういう意味では、火に触れ、水に触れ、土に触れ、そして様々ないのちの根源に触れていくことは進化を高めていきます。

子どもたちには、進化に相応しい環境を用意し古代から謙虚に受け継がれてきたいのちの本質のままに伝承していきたいと思います。

七輪

聴福庵では、よく「七輪」を使って料理をします。この七輪とは、土製のコンロのことで炭火を熾したり煮炊きをしたり、焼き物をするときに用いるものです。暮らしの中でこの七輪があることで、炭火を用いた料理はとても幅が広がります。現在ではスローフードの道具として有名になっていますが、本来は日本人には欠かせない調理道具として永い時間暮らしを支えてくれたパートナーの一つです。

歴史としては古代は土師製の炉として宗教用道具として祭祀などにも用いられ平安時代になると室内において置き炉となりこれがのちに手あぶりになり、屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものだという説があります。能登製の珪藻土が有名ですがむかしは土師製粘土のものが多かったといいます。

この珪藻土というものは、植物プランクトンの遺骸が集積したものです。この天然珪藻土には無数のミクロの空胞がそのまま残っており、保温性・蓄熱性が高く熱効率が良くしかも丈夫でまさに炭火を熾し調理するための最高の材料だったのです。粘土から珪藻土になるのは珪藻土の産地の能登半島を除き明治時代になってからと言います。

現代では七輪の三大産地は土質の良好な愛知三河、石川珠洲・和倉、四国香川があり、かつてはこの三大生産地で日本全体の需要を賄っていたといいます。しかし七輪の需要の急激な減少から廃業が続き三河で3社、石川和倉で1社、石川珠洲で4社ほどになっているといいます。

聴福庵で活躍する七輪たちは、三河七輪と石川珠洲七輪です。まず三河は、江戸時代から続く三州瓦の産地で有名です。この地域は焼き物に適した粘土が多く、瓦以外の焼き物も盛んでした。三河土は熱との相性がよく保湿能力に長けています。これを珪藻土と組み合わせているので丈夫なのです。また黒七輪として有名なのは三河土に炭を塗って乾かし那智黒石で磨き上げているからです。手作りの黒七輪は味があり、うっとりします。

また能登半島は土の三分の二が珪藻土でできているすごい場所です。この豊富に産出する珪藻土鉱床から掘り出された珪藻土ブロックを、崩す事無くそのまま七輪コンロの形状へ切り出して焼成しています。これを「切り出し七輪」といいます。まさに珪藻土のままで形成された七輪は姿かたちそのものが美しく、卓上においても芸術品です。

これらを備長炭や様々な料理の種類に合わせた炭で調理するとき、素材の味は深く引き出されていきます。天然の材料を、天然自然の道具で調理する。現代のように、電磁調理器やプロパンガスなどでは決して出ない味が出てくるのです。

なんでも文明や技術は簡単便利になって効率があがり、人がラクをしてできるようになればいいという価値観ですがそれと共に失っていくものがあるのを決して忘れてはなりません。ラクになることが仕合せなのか、そうではないでしょう。ラクをすることではなく、仕合せのためにラクをしないこともまた選択すべきです。

これらの七輪などの道具は私たち日本人の仕合せを守り続けてきた文化そのものであり、人間が人間らしくゆったりと暮らしを味わい仕合せに生きていくために必要なものなのです。

子どもたちの未来に、大切なものまで奪ってしまわないように使命感を持って暮らしを甦生していきたいと思います。

仕事観

先日、「仕事観」について考え直す機会がありました。そもそも仕事とは何か、それは個々でそれぞれの価値観によって定義されています。仕事というもの自体をその人がどのように定義しているか、それが仕事観ということです。そしてその仕事観を聴けば働き方になり生き方が分かります。人生として働き方と生き方が一致させるにはその「仕事観」こそよく自分で再構築する必要があるのではないかと気づくのです。

たとえば、一般的な仕事観としてはどのようなものがあるか。それはやりたくないことをやるのが仕事、やらされることが仕事、生計を立てることが仕事、会社に行くことが仕事などというものがあります。こうなると、仕事が増えることは苦痛そのものであり自分に仕事が回ってくると損する気持ちになったり、面倒に巻き込まれたと思うのでしょう。次には、社会貢献することが仕事、お客様に喜んでもらうことが仕事、幸福を与えるのが仕事などというものもあります。こうなると仕事が回ってくると喜びや感謝、遣り甲斐や生きがいという気持ちがわいてくるのでしょう。

世の中には生き方が多様であるように個々人の生き様と同じく様々な仕事観があり、その仕事観によって人は日々の働き方を創造しているのです。もしもその仕事観が、やらされているものややりたくないものをやること、もしくは自分勝手にこれが仕事なのでと割り切っていたらそのうち一生その仕事をすることが自分の生き方になっていきます。

一生涯かけて取り組む仕事だからこそ、その仕事観は果たして一生かけてもいいと思っているものかどうかということを確かめる必要があるのです。なぜならそれが人生の幸福と密接にかかわっているからです。仕合せに生きるためには、仕合せに生きるための自分自身の仕事観をもう一度問いただす必要があるのです。

たとえば毎日の仕事が楽しくなくなってくるのは、その人の仕事観が歪んでいることが多いように私は思います。本来の仕事とは何か、それが根にあり芯が入っていれば多少の辛いことがあったとしても仕事が楽しくなります。しかし仕事観が本当に一生涯かけて取り組むことではないことをモチベーションにしていたらすぐに消極的な感情に呑まれて生き方や働き方を誤魔化してしまうようにも思うのです。

自分を偽り誤魔化す働き方をしていたら、それがそのうちに自分を偽る生き方になっていきます。自分らしく自分の生き方を貫くためには、自分が生涯かけてもいいと思っているようなことに今日も取り組んでいるんだという働き方を日々に磨いていく必要があります。

そのために、まず自分の仕事観や固定概念が果たしてどうなっているか。仕事だと割り切ったこと、常識だからと諦めたこと、過去の体験から刷り込まれたものをもう一度見直し、改めて「働くとは何か、生きるとは何か」という大前提の土台を創り直す必要があるように思います。

知ら知らずに私たちは誰かから教え込まれた仕事観というものを学校や社会から刷り込まれていくものです。責任の押し付けであったり、我慢して嫌なことを引き受けたり、健康を害してでも努力したり、そういうことをやることが仕事だと思い込んだりします。そのような仕事に合わせすぎているちに本来のチームであることができなくなったり、仲間であることができなくなったり、同志であったことを忘れたりもするものです。そういう時こそ内省によって何に合わせたか、仕事というものはこういうものだという固定概念に合わせなかったと気づけるかどうかで人生の歓びもまた変わっていくのです。

特に私が関わっている幼児教育の業界では「キャリアアップ」などという研修が流行りで行われています。まずキャリアとは何か、仕事とは何かを定義することなしに、単に補助金を配布するための知識を詰め込み直すような研修をやっていると現場の方々からもよくお聞きします。

子どもの仕事をするのに、なぜそれを本人の生き方や働き方と何ら関係しないつまらない仕事観に導こうとするのか。本来の子どもの仕事とは、生き方を与えるものであり保育とはその働き方で伝道していくものでしょう。

私たちは仕事観というものをまず見つめ何をもって生き方と働き方の一致というのかをそれぞれに問いてほしいと願います。私の働き方はふざけていて常識的な世の中から見ると自分勝手にやっているように見えるかもしれません。しかし「本当の仕事とは何か」が観えればこれが自分の目的に適っている仕事の仕方であることが観えるはずです。世のなかの仕事の常識を壊せるかどうか、この辺は簡単にはいきませんが遣り甲斐のあるプロジェクトです。

これからもカグヤは、その一点に集中して子どもたちの憧れる生き方と働き方に特化していきたいと思います。

聴福人の習慣

人の話を聴くのにおいて、「信じて聴く」ということは大切なことです。これはきっと善いことになっていくという信念で聴いているとも言えます。さらに話を聴くことの前提に、相手のことを丸ごと信じている状態になっている必要があります。

つまりは自分自身が聴ける状態であるか、それは自分自身が何を信じて話を聴いているか、自分の信じるということへの哲学や信念が聴くことに現れているのです。

よく話を聞くとき、正しいや間違いなどを指摘しようとするものです。それは信じて聴くこととはあまり関係がなく正しい答えを教えているだけです。正しい答えを聞くことはその人にとっては正解ではなく、その人たちが本当に欲しているのは信じてほしいということがほとんどです。

自分自身が生きていく上で、自分を信じられなくなる時、丸ごと信じて聴いてくださる存在に人は救われるからです。私もそれを幾度も体験しています。

今の自分があるのは、自分が信じることができなくなるような出来事で葛藤するときそれをじっと丸ごと信じてただ聴いてくださった方があったからです。

単に聞いて正論を教えてくれたことがあっても、それは長続きせずその場はわかった気になってもまたすぐに不安や心配になります。しかし丸ごと信じてくれた存在が見守ってくれていると思えると安心して不安も払拭していけます。

つまり心で聴くというのは、相手の心を信じるということと同義なのです。

聴くことができる人は、どんなことがあっても天の声だと素直にメッセージを受け取ることができます。そのメッセージは、「必ず天は最善にしてくださっている」といった全体善に原点回帰していくことを自覚するものばかりだからです。

だからこそ自分の心がどうなっているか、他人の話を聴く前に整えておくのが聴福人の実践なのです。そして聴福人であり続けるためには、日ごろの過ごし方に心を整える内省という習慣が必要になります。

丸ごと善で聴く、丸ごと信じて聴くというのは、日々の御縁を信じて前向きに明るく生き、生涯学習を続けて自己を修めていくという習慣を維持していくということです。私のこのブログもまた、聴福人の実践の一つです。

引き続き、子どもたちが安心して育ち、見守りを感じ続けられるように怠らず努めていきたいと思います。

考える人

「自分の頭で考える」という言葉があります。これは何を考えていないからそう言われるのか、そして何を考えれば自分の力を使って考えたかと言えるか。この「考える」ということは、単に普段使っている頭で容易に想像しているようなことを言うのではなく自分で物事の本質に辿り着くプロセスのことを言うように思います。ではなぜ本質を考えることをやめてしまうのか。なぜ考えない状態になるのかということを突き詰めていく必要があります。私のブログでの日々の学問の鍛錬もまた、この本質を見極め続けることで考え続ける習慣をつけているとも言えます。

そのちょうど「考える」ことを深めていたら「地頭力を鍛える」という著書で有名な細谷功氏の言葉が的確なものがありましたので紹介します。

「仕事で成果を出せる人とそうでない人の違いは、頭の良さというよりも、じつは「考えているか、いないか」という点にあります。もっと厳密にいえば、「考える」という行為の前には「考え始める」という高いハードルがあり、多くの人はそれができず、思考停止状態に陥ってしまっているのです。」

細谷氏は、考えないことを思考停止状態と言います。そして思考停止を回転させはじめるためにはまず「考え始める」という高いハードルがあるといいます。自力で主体的に考えるためにはそのハードルをまずは飛び越える必要があるというのです。

「思考停止型人間の口癖を見てみると、他人や環境のせいにする他責の言葉が並んでいます。たとえば「情報がないのでわかりません」というのは、「情報が不足している」という状況のせいにして言い訳をしているにすぎません。他責の言葉を言った時点で、「私はもうこれ以上考えません」という思考停止宣言をしたようなものです。」

そのためには、「自覚」が大切だと仰います。自覚こそが成長であるとも定義されておられます。

「知らず知らずのうちに視野が狭くなっていることは多いもの。そんなときは、「他人に気づかせてもらう」のが一番。周りの人に積極的にアドバイスを求めましょう。より広い視点を得るには、自分は何も知らないという謙虚な姿勢、いわゆる無知の知を持って問題と向き合うのが第一歩だからです。」

この無知の知というものは、知らないこが自覚できるということ。ソクラテスの汝自身を知れという格言にあるものです。思考停止というものは、もう知ってしまっている、「わかった気になっている」状態になっているということです。つまりは学問を深めようとしていない、自らで辿り着こうとするのを諦めているとも言えます。

そしてそれは今の社会や世の中をもう一度鵜呑みにせずに、自分の頭でちゃんと見極めるということです。今までの慣習や世の中の常識を疑って、もう一度目的から考えてみる。自分のことを客観的に見つめ、「本当は何か」を突き詰めてみる。まさにこれが自分で考えるということなのです。

「自分の頭で考える」というのは、ある意味で世の中の価値観に背を向けることなのです。』と言います。

自分の頭で考えることがなければ、本質が分かることはありません。本質風が世の中の風潮で、考えない人が増えれば増えるほど本質風のトレンドは増すばかりです。しかし、どこかで気づくはずですそれは誰かの考えを鵜呑みにしていただけだったと。

人間は誰しも自分自身の頭で自分自身と向き合い、一人一人のなかで自分の答えを出し続けていく必要があります。それが自分の人生を生きたということであり、その答え合わせを自分の足を使って歩んでいくのでしょう。

だからこそ日々に起きるあらゆる出来事や御縁を「本当は何か」と目的を見出し、そして「何のために」と意味をつなげていくしかありません。物事のつながりが観える人は、思考が回転し続けている人です。思考停止状態にならないように、日々に「なぜ」と謙虚に人に自他に問い続けることができる人は考える人だと思います。

子どもたちに、時代の価値観を押し付けて機械やロボットのように生きることをさせないように自分自身が考えて考えぬいたもので伝承していきたいと思います。

 

 

響き合いのカタチ

聴福庵の離れの土間を左官職人さんに仕上げていただきました。その土間には、炭を随所に活用したものになっています。装飾として菊炭を埋め込み、粒状の備長炭も混ぜ込みました。

極めつけは、古瓦を用いた音の出る犬走です。これは離れのむかしの造りを活かしたもので、雨樋を設置しなかった分、あちこちに水滴が落ちてはねてしまい周囲を汚してしまいます。それを通常は、砂利などを敷いて犬走をつくり工夫しますが今回はその水滴を活かしかえって綺麗な音が出るように瓦を土間に設置していただきました。

まるで水琴窟のような澄んだ綺麗な音が響き渡り、雨の日の外の音を静かに家の中で楽しめるようになりました。この水の音は、心を浄化し精神を安定させてくれます。

水滴と古瓦が奏でる懐かしい音は、今の機械音ばかりを聴いている心に清涼感を与えてくれます。その犬走の中には、備長炭を設置し水がゆっくりと水路に流れるようになっています。瓦の隙間にもまた粒状の備長炭を挟み込んで水路に塵や埃が落ち込まないように工夫されています。

左官さんとの協働作業でアイデアを湧かし、一つの芸術を実現するのはとても仕合せなことです。先日も、貝を装飾し磨き光らせる友人と一緒に考えて創った貝の首飾りもまた同様に一つの芸術になり仕合せを深く感じました。私は、どうも創作するのが大好きらしく心の情景を職人さんの技術とアイデアで一緒に実現するのが楽しいようです。

仕事もまた同様に、一緒に実現したい夢や理想に向かって協力してカタチになっていくのが楽しく仕合せを感じます。それがたとえ物ではなくても、その思想を顕現させていくような仕組みづくりやそのアイデアを活かした環境づくりなども大好きなようです。

改めて、自分自身が何によって癒されていくのか、そして仕合せを感じるのか。一つ一つの芸術が実現していくたびに近づいてきている気がします。顕現したカタチはお互いの心が響き合った芸術だからかもしれません。

これから聴福庵の伝統的漆喰の塗り直しと、おくどさんの竈の漆喰磨きを控えていますが一緒に復古創新する中で子どもたちに本物を伝道できる材料が集まってきたことにまた歓びを感じます。

子ども第一義の理念に沿って自ら信じた道を、直向きに歩み切っていく覚悟です。

襤褸の心

先日、聴福庵の離れの古布の襤褸を眺めながら改めて「ぼろ」の意味などを深めていました。私は人生の中でよくこの「ぼろぼろになっている」という気持ちになる体験から多く、そんな状態であっても信念に従って真心を盡したいと挑戦し続けてきました。今年は「許し」をテーマに取り組んでいますが、この襤褸と許しはとても密接に関連しているように思います。

そもそもこの襤褸というのは、襤褸と書いて「ぼろ」と呼び、擬態語のぼろぼろも同じ意味です。江戸時代以前、綿布を刺し子という技法で強化されたり穴があくと継ぎを当てボロボロになるまで使い込まれ、なおかつ裂き織りという形で布の命が尽きるまで最期まで使い切られていました。一代だけで着終わるのではなく、遺り続ける入り子々孫々の方々に大切に着られてきたものです。

これがフランスのファッション界に評価され、今では「BORO」として世界共通語となり欧米の染織美術・現代美術のコレクターの人気になっているとも言います。

このいのちを尊重して大切に使い切るというのは自他を思いやる心に充ちているようにも思います。そしてこの襤褸ほど許しに満ちているものはないように私は思うのです。

自分というものを削ぎ落していく中で、遺ったものが何か。ことわざに「ぼろが出る」という言葉もあります。隠していた本当の自分が出てくる、認めていなかった自分と向き合う、いくら表に出ないようにと振舞っていても自分自身のことは自分が一番身近でよく知っているのです。

それをいくら責めて心をひた隠しにしていても、心は限界になって表に出てきます。そしてぼろが出るのです。この襤褸とは自分自身のありのままの姿のことで、あるがままの心の現実のことです。

それを如何に許すか、つまりは自分を認めるかというのはとても難しいことです。自分のことをわかってもらえない、自分を理解してもらえないと辛く苦しみますが、それは自分が自分のことをわかってあげようとしないことから発生します。

自分というものを直視するのは、あるがままの自分を許し認めることが必要です。直視せずにいくら偽ってもぼろぼろになるだけで本当の自分という襤褸になるわけではないのです。

そのままでも美しい、あるがままでも必要価値があるというこの襤褸の心は私には必要不可欠なものです。まだまだ時間がかかりますが、経年変化とともに磨かれてそぎ落とされていくその凛として美しさに恥じないように私も学び直しを続けていきたいと思います。