主体性の本質~お手伝い~

「お手伝い」という言葉があります。これは「手伝う」に「お」の接頭語が入ったものですが当たり前に使っている言葉ですが大変な意味があるように思います。この手に伝えるという合わせた言葉、とても深く味わい深いものがあります。現在では、チームだとか協力とか主体性とか色々な言葉が組織運営について出てきますがこの当たり前の「お手伝い」が何よりも仕事の本質であるようにも思います。

幼いころから、家のお手伝いをして育ってきますが人間は当たり前に協力して働くためにはその働くための智慧を自然に身に着けていきました。その代表的なものが、農業であり里山での暮らしの中で集団を通して助け合い生きる力を育んできたのです。たとえば、みんなで助け合い屋根をふきかえたり、堤防の修理や、家々の柿の実を収穫したり、子どももみんなで見守り、お年寄りもみんなでお世話をする。

これは自分のもののようで自分のものではなく、みんなのものであって自分のものでもある。つまりは生活共同体、共存関係を結んでいたのです。沖縄ではその関係を「ゆいまーる」ともいい相互扶助の関係を築き上げていました。

現在では、自分は自分、他人は他人となってしまってみんなのものという意識は消失してきているように思います。そのことから本来のお手伝いということも意味が異なり単なる役割分担や担当制のように変わってきているように思うのです。つまりは歪んだ個人主義が蔓延しつながりが切られたことで「一緒に生きている」という実感がますますなくなってきているように感じます。

本来の「お手伝い」とは、この「一緒に」という気持ちをお互いが持っていることのことを言います。本当の主体性とは、「自分はみんなと一緒に生きている」という共存意識を持っている人たちのみに発揮されるものだからです。

だからこそ他人事にせず、自分のことだという当事者意識が生まれます。そして会社も同様に、自分の会社であって自分だけのものではなくみんなのものである。みんなのものだからこそ自分も手伝うことができて有難いと感じながら働くことが相互扶助でお互いを活かしあい助け合うことができるということでしょう。

自分というものと全体とのつながりが消えてしまうと主体性は消失します。すると、孤立感や孤独感、そしてやらされ感やさせられ感に変わってしまうのです。結局、何か自分に何かの出来事があったときに気づくのが自分が助けてもらえ所属する会社、仲間や友人、家族など周囲のコミュニティの中があることに気づき直すのです。

だからこそそのコミュニティを守ろうと「お手伝い」をすることは当然のことであり、それが「自分もみんなも守る=お手伝い」ということなのです。手伝っているようで手伝ってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分自身であるという真実に気づくことが共存共栄していくという人間の智慧の本質なのです。

チームかどうか役割とか担当とか議論する前に、そもそもは果たして自分とは自分だけのものなのか、そんなことは一人では生きていけないからすぐにわかるはずです。いくらお金があったとしても、助けてくれる人たちがいなければそのお金を使うこともありません。つまり人間は自分であって自分ではないものの存在に気づけるかどうかが何よりも先なのでしょう。

みんなで一緒に生きていく、その一緒になっている組織を守っていくということにどれだけ真剣に関わり本気で取り組むかが主体性の本質です。引き続き、課題をチャンスにして本当の問題に向き合っていきたいと思います。

 

煤祓い

昨日は、12月13日の正月事始めとして聴福庵の煤払いを行いました。むかしは囲炉裏や竈、七輪や薪のお風呂など火を使うものが多かったことから大量の煤が生活道具や家具についていました。その煤汚れなどを掃除し、間もなく訪れる正月に合わせて歳神様やご先祖様が清浄な家に帰ってこられるのを待つ心で洗い清めるためのお掃除です。今では家電製品が中心ですから大掃除くらいのイメージですが、この煤払いは単なる大掃除という意味ではなく大切な日本の伝統的な暮らしの年中行事の一つです。

この煤払いを調べると平安時代にはすでに行われていたとあります。もう1000年以上前から行われている習慣だと思うと、身体は知らず知らずにそれを覚えているのかもしれません。この12月13日に行うようになったのは江戸時代からだといい、江戸城に合わせて町人たちも13日を煤払いの日にしていたといいます。

正月を迎える物忌みの始まるのが13日で、28日までに掃き清めを行い歳神様の正月を迎えるための信仰の一環としてこの日を煤払いにしたといいます。むかしの人たちは一気に大掃除ではなく、時間をかけてじっくりと丁寧に掃き清めながら一年の煤を払ったのです。

掃除に使われた道具も、むかしはお焚きあげをして一緒に供養したとあります。ここには一年、生活の中で出た穢れを払いながらもその働きやいのちに感謝の心で供養していくという生き方があります。そして一年一年と積み重ねていくいのちの暮らしがあって、その一年の節目を大切に振り返りながら翌年を迎えていこうとする慎む心が観えてきます。

そう考えてみると、この一年もまたいろいろな煤が出た一年だったなと思います。

その煤を思い返しながら、暮らしを見つめ暮らしを味わう。その中で出てくる錆のようなものを綺麗に拭きとりまた美しい本体を顕していこうとする。祓うことで観えてくるといったまさに魂を磨く一つの生き方伝承行事なのです。

日本ではこの「お祓い」を暮らしの中で大切に位置づけていたように思います。穢れは歳月の中で次第に出てくるものだからこそ、それを日々に手入れをして美しく磨いていこうとしたのでしょう。歳神様というものは、清浄なところにお越しになるというのはこの初心をもっている方だからかもしれません。

一年で一つの四季が巡ります。

また新しい四季が巡るときに、初心に帰り初心を忘れないで歩んでこれたかと思い返し一生を磨き続けていきます。日本人の清々しさ、根の明るさはこの年中行事が助けてくれていたのかもしれません。

暮らしを甦生しながら、子どもたちに伝承していきたいものを譲り渡していきたいと思います。

 

 

幸福な生き方~自分のために~

人間は仕合せでいるためには、本当の自分というものをもっている必要があるように思います。周りに合わせたり、周りを気にして自分を偽れれば偽るほどに仕合せは遠ざかっていくものです。

たとえば、好きなことをやっている人たちが仕合せなのは自分のためにやっているからです。誰かのためにというものもありますが、それが自分のためになることを自覚しているのです。

むかしの日本の格言に、「情けは他人のためならず」というものがあります。この本来の意味は「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」というものです。

情けをかけた気になって他人のためにしてやったと思い何度も続けているうちに、なんで自分ばかりこんなことをしなければならないのかと文句を言う人もいます。しかしそれは自分のためにやっているということが分からなくなっているのかもしれません。

仕合せというものは、自分の心の充足でありそれは自分らしくいることを維持することです。そのためには、常に半分この状態、つまりは半分は相手のためだけど半分は自分のためにやっていると気づくことのように思います。

好きなことが嫌いになったり、やりたかったことが単に辛いだけになるのはどこかで自分を見失っているからかもしれません。自分が好きでやっていることだし、これは自分のためになっていると思っている人は楽しむ力、言い換えれば豊かさを持ち心の余裕が広がっています。その逆が好きでもないことを誰かのために我慢してやっていると思うと、途端にネガティブになり貧しい心が不幸を呼び込みます。

周りからどう思われたいかを気にして生きていくことは、本来の自分を偽って生きていくことです。地位や名声、世間の評価や役割を果たしていくことにばかりにあまりにも関心を持つと仕合せは逃げていくように思います。

自分らしくいるというのは、自分のためにやっていると自覚することです。好きなことをやっていると自覚できるのもまた、自分にとってこれが大切な価値があることだからと自認しているからでもあります。

周りを気にするのは、どこかたった一度きりの唯一無二の自分の人生を他人に委ねすぎて流されているかもしれません。主体性を見失い自分で思考を停止してしまうと、結局は自己を喪失し憂鬱さばかりが頭を擡げ心身が疲れ果ててしまいます。これも今の日本の社会全体が幼少期より比較競争や他人の人生を生きるように評価されてきた不安や恐怖の刷り込みが自分の中に残っているからです。

だからこそ敢えて意識して自分らしくいること、つまりはこの世に生を得て生きていくのだから自分が好きでやっていてすべては「自分のため」になっていることだからと、からりと晴れた清々しい気持ちで自分は自分なのだと日々を安心して過ごしていきたいものです。本来の内省は何のためにあるのか、それは他人の評価のためではなく自分のためにあるものなのです。自己内省の習慣は本来の自分を取り戻すための大切な智慧なのです。

子どもたちには、そのもののあるがままの価値に気づいてもらえるように私たちが自分らしくいること、自分のためにやっているという幸福な生き方を示していきたいと思います。

言葉の定義

言葉というものは時代の価値観と共に変化するものです。それは時代の価値観が反映されて言葉を使う人たちの間で変わっていくからです。つまりは言葉というものは、そもそもそうやって人間の間で不確かに生き続けて形を変え続けるものだからです。だから言葉のことを言霊とも言うように思います。

たとえば、孔子の時代に孔子が弟子と問答した論語もまた時代の流れと共に変化してきます。春秋戦国時代に使われていた仁義などの言葉も、平和な時代に入るとその意味が少し変わっていきます。それを今度は、孟子という人物が本来孔子の言うのはこういう意味であると言葉をその時代の人たちに真実が分かるように翻訳していくのです。

日本でも朱子学や陽明学をはじめ孔子の教えが本質を維持するように、その時代の翻訳者たちがそれぞれに時代背景に合わせて言葉の定義をしてきました。時代と共に言葉が分化していくのは、それだけの時代を経てきた証拠でもあるのです。

この儒教だけではなく、当然仏教も、神道もまた時代が変わるたびに少しずつその言葉の意味が変わり真実が分かれていきます。その真実を見極める人たちによって、できる限り最初の意味や本来の定義が変わらないように伝承されていくことでそのものが時代に受け継がれていきます。

人間を教育するというのは、この言葉の定義や意味を本来のままに使えるような人々を増やしていくことです。そのうえで、同じ定義を用いてお互いに学び続けて人格を高めていくことが必要になります。

人間は社会を育てていく生き物ですから、社会の一員として言葉を用いて平和な社會を築いていく必要があるからです。

今の時代は多様化が進み、言葉も乱雑化してきています。ありとあらゆる言葉の使い方をする人たちも増えてきて、本来の意味も湾曲して自己解釈が自由勝手に行われている時代でもあります。言葉が氾濫しているといってもいいかもしれません。本来の意味ももう違う意味で刷り込まれてあまりにも反対の意味になっているものが、そのまま使われていたりもします。

学問をする人たちが、それぞれの場所でそれぞれの道で本来の言葉の意味を真実のままに伝えるしか正統を維持していくことはできません。大事なのは古今の聖賢たちが観ているものを一緒に観続けて精進していくことかもしれません。

引き続き、何が真実であるかを求めて日々に言葉の定義を深めていきたいと思います。

努力の素晴らしさ~場数の価値~

以前、ある年配の人から「あなたは若いのに経験が多いのはなぜ?」だと質問されたことがあります。この経験とは、場数のことでどのような場数を踏んできたかということの話になります。そしてこの場数とは、努力してきた経験の数のことを言います。

場数が多い人は、それだけ努力してきた過程の中で得た智慧の質量もありますから本番に強くなります。逆に場数が少ない人は、経験していませんから努力が足りないとも言えます。この場数が努力を測るモノサシなのはここからもわかります。そしてこの場数とは、単に回数をこなせばいいのではなくどれだけ努力の回数があったかということを示唆していることに気づきます。

たとえば、何かに挑戦すれば必ず失敗をします。その都度、挫折をし理想が高いほどに心も折れます。しかしそこからまた立ち上がり再び挑戦をします。そのためには何回も何回も検証をし、努力を積み重ねて真剣勝負でまた挑んでいきます。

私の場合は、何でもすぐにやってみてはそれを継続するという実践タイプのようで失敗の場数は他人よりも多いように思います。情熱と気力が強く好奇心旺盛なこともありますが、まずはやってみようとします。当然、素人がいきなり高い一流のレベルに挑むのですから挫折は本当に日常茶飯事です。特に、大きな怪我をしたり病気になったりすることもあれば心が深く傷つくようなことや精神が病んでしまうようなことに出会うこともあります。

ある時は身も心もボロボロになり、またある時は涙しながらもそれでもまたしつこくやってみようとします。簡単に言えば、ただ諦めが悪いのでしょう。しかしこの諦めの悪さ故に場数の質量を高めて努力することの仕合せや歓びに出会い信じる力に換えてこれたようにも思うのです。

その努力は、大半は誰か大切な人を思いやる真心から出てくるものですがその努力によって自分自身がいろいろなことができるようになる歓びも同時に得られます。他人に喜ばれるものが、自分の能力でできるようになることはとても仕合せなことことです。きっと自分が誰かの役に立てるという歓びを知ってしまっているのです。

そして努力の経験が増えれば増えるほどに、周囲に対する努力のすばらしさ、諦めないことで必ず実現するという勇気の応援、最期まで相手に寄り添い信じ抜く見守りの原動力を得られているように思います。根の明るさはそこからやってくるのです。

私の場合は、高い理想に対して何度も何度も挑戦していて時折疲れたら過去にできなかったことをやったりしてみます。するとあれだけ大変だったことがいともたやすく出来るようになっていることに驚き、やはり努力が裏切らないということを確かめるのです。

気が付けばいつもかなり高いレベルのことに挑んでいるばかりのことが増えそう簡単にはすぐに結果が出ないものばかりになってきました。むかしは、半分くらいは多少の努力で達していたものが今ではほんのわずかな成功率でしか得られない大変難しい努力のことばかりしかやっていません。

しかしそれでもこの努力はなぜかやめられませんから、苦しいばかりではなく本心では難しいからこそきっと心は深く楽しんでいるのかもしれません。人生の中で善い場数を増やしていくには、日々の努力を楽しんでいく必要があります。それは壁を乗り越える仕合せであったり、新しい発見であったり、何度も何度も挑める歓びであったり、次こそはと色々とまた試してみる、つまり「創意工夫の充実した日々」を送ることです。

努力をし続けることは、決して言葉では教えることはできません。しかし真剣に何度も困難に挑んでも立ち上がりまた挑む姿は努力の価値を伝承していけるようにも思います。人生は生きていることが何よりも場数、疲れたらまた休み、そしてまた立ち上がり挑めばいい。そうやって努力を続けられることが何よりも有難いように思います。

引き続き、子どもたちのためにも努力の素晴らしさを伝承していけるように誰よりも場数を味わい楽しんでいきたいと思います。

お導き~運命に素直になる~

人生を振り返るとき、出会いの一つ一つの意味を後々に深めていると偉大なお導きによって今につながっていることに気づきます。その時、あの時の奇跡がまさに今の自分を創造しているからです。

この「お導き」という言葉は、言い換えれば「こちらですよと案内された」という感じにもなると思います。あなたの道はこちらにありますよと導いてくださった人たちはみんな出会った人たちの御蔭です。その道に従って素直に歩んできたから今があります。

運命というものを想う時、どちらに行くのだろうかとわかっているような感覚もあります。これは私が以前、交通事故にあった時や、災害を逃れられた時、いつも大切な局面で目には観えませんが予兆や予感によって助けられました。ある人はそれをご先祖様の見守りといい、またある人は運が善いからとも言います。

もしも道案内の方がいつも傍に居て、そっちではないですよ、こちらですよと観えるのならこんな安心なことはありません。多少道を間違えても、すぐに戻ってこれる。ちょっと寄り道してもまた元の道に戻ってこれる。自分の与えられた道が観えるというのは仕合せなことのように思います。

松下幸之助さんは、「自分は死ぬ直前まで運命に素直に従いたい」と言いました。この境地はどれほどのものかと思うのです。導かれて生きる、運命をひらく生き方というものは素直に今を味わいきるもっともお導きに任せた生き方なのではないかと思うのです。

つまり、運命を生き切った人が素晴らしいことであり運命は必ずその人に仕合せをもたらせているとも言えます。しかしそれを阻害しお導きを感じられなくなるのは運命に対して素直に生きていないからかもしれません。松下幸之助さんはこうも言います。

「苦しかったらやめればいい、無理をしてはならない。無理をしないといけないのはレベルが低い証拠。真剣に生きる人ほど無理はしない。無理をしないというのは消極的な意味ではない。願いはするが無理はしない。努力はしても天命に従う。これが疲れないこつである。」

天命に従う人は疲れないと言うのです。逆に天命に従わないから疲れると。無理というものは天命に逆らっているからだともいうのです。つまりすべてを「天にお任せするのだ」ということでしょう。

結果を気にして、評価を気にして、自分の人生を誰かのものにしてしまえば無理して疲れるばかりです。まさにこの今は、運命であり天命であり、これでいいのだと素直になって従っていけば自分の都合のままにはいきませんが必ず善いことになるとお導きに任せていけるのです。

お導きがこうであるのなら、素直にお導きに従いますと今を真剣に歩んでいる人は素直に自分のままでいられるように思います。あるがまま自分のままであるという仕合せは、何物にも代え難い人生の幸福です。

現代は脳ばかりを肥大化させ、人工知能の世の中ですから天命や運命、お導きなどという「信じる」ことはあまり意識されませんがこれは人間としての大切な永遠の叡智として切り離しておくことはできません。

子どもたちにも自分らしく疲れずに無理をせずに素直に生きられるように、天命に従いお導きを信じる生き方を譲り遺していきたいと思います。

自分を大切にするということ

中江藤樹の「致良知」という言葉があります。これは今の時代は素直になり切ること、真心のままになること、人徳を究めることなどと定義してもいいかもしれません。中江藤樹は人間には誰にしろ「良知」という美しい心を持って生まれているといいました。これは虚心赤心でもあります。まるで生まれたての赤ちゃんがはじめから周囲を信頼仕切らないと生きていけないように生まれながらにしてすべてのいのちと仲よく親しみ睦み合い尊敬し合い認め合う心が備わっているということです。

私の日ごろからの言い方では、これを「初心を大切にする」とも言います。しかし人間は日々の私欲が我欲、また感謝を忘れて足るを知らなくなってくるとその初心が曇っていき本来の備わっていた真心を見失ってしまいます。そうならないためにも、日々に内省し自分の心にだぶついてくるその欲を洗い清めていく必要があります。

そのために中江藤樹が実践したのは「五事を正す」というものです。これは「貌、言、視、聴、思」を常に意識するということです。つまり和やかな顔つきをし、思いやりのあることばで話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、真心をこめて相手のことを思いやるということです。

この平易な言葉で説明できる五事は、実際に自己観察してみるとすぐに我が入りこみ以上のような心のままでいることは難しい状態です。だからこそ、普段から自分の心と向き合い、自分の心を大切にし、心の命じるままに心を実践していく必要があります。

その心の実践で今の時代で大切にした方がいいと私が感じるのは「自分を大切にすること」のように思います。これは自分を優先すればいい、自分勝手にすればいい、我儘を聞いてあげればいいという意味ではありません。それに、単に自分を守ればいいということでもありません。

これは自分に孝行するということです。言い換えれば自分を敬うのです。

中江藤樹はこう言います、「私たちの心や体は、父母からうけたものであり、父母の心や体は、先祖からうけつがれたものであります。それはもともと、大自然から授かったものです。孝行とは、父母を大切にし、先祖を尊び、大自然をうやまうことです。そのためには自らの良知をみがき、体をすこやかにし、行いを正しくし、家族やまわりの人々と仲よく親しみ合うことが大切です。さらに、子どもをあたたかい心でしっかりと育てることも孝行です。」

自分を大切にするというのは、ご先祖様からいただいたこの借り物の自分を大切にしていくということです。そのためにはご先祖様を敬い、今の自分を育ててくださった父母や周囲の環境を敬い、日々に自他を愛して優しく思いやりの日常を過ごしていくということです。同様に子孫たちにも、その孝行を盡していくことが「自分を大切にする」ということなのです。

自分を大切にする人は、致良知が磨かれていきます。そして噓偽りない真心の人になっていきます。「自分を大切にする」とはつまり自分に嘘をつかず自分を誤魔化さず自分を責めず、自分に奢らず、自分を粗末にせず、親孝行や子どもたちをあたたかい心で見守るときのように自分自身に接していくということなのです。

時代を超えて、中江藤樹が大切にした生き方は今の時代の人々の生きる指南になっていきます。先人を敬い、本来の学問を子どもたちに伝承していきたいと思います。

理念研修とは何か

最近、現場で理念を研修しているところの話を聞くことがあります。しかしこの理念という言葉は、使っている人によってその言葉の定義が全く異なることに気づきます。それは経営という言葉も同じく、使う人の生き方や考え方によってまったくその意味が異なるのです。

これはその人が話す理念や経営の意味や定義、それ自体をどのように理解しているかで言葉の意味が変わります。これは例えば、本気や覚悟なども同じくどれくらい本気か、何が本気か、覚悟とは何か、覚悟を決めるとはどれだけのことを言うのかと同様にそれはその人の生き方や生き様を反映するものだからです。

しかし先日、拝見した他の会社が取り組んでいるという理念はとても生き方や生き様を反映したものではありませんでした。教科書的に単に一つのルールを覚えさせ守らせるだけのような理念の使い方、冊子を作るだけでそれを活かすことがない。しかもそれを最初に破っているのが経営者となれば一体誰がそんな理念に着いてくるのかということです。縛るものを開放するのが理念であるという人と、より縛るために理念を使う人もいる。結局は理念は道具と同じく使う人にとっては薬にもなれば凶器にもなるということです。

また同様に色々な企業が理念経営の研修などをやっていますが、果たしてそれが経営者の嘘偽りない本心からの本質の生き様や初心を記されたものか、本物かどうかを確かめるにはその理念を取材する人間の理念への定義がどうなっているかをまずは確認する必要があると私は思います。

理念を取材する人間がどのように理念というものを定義しているか、そしてその人は理念に正直に生きているか、理念をどれだけ大切に実行できている人かということが大切だということです。

形骸化する理念や、現場で使われない理念は文字通りスローガンでお飾りです。理念はコピーライターが取材するものではなく理念経営を実践する経営者しかできないものです。言葉を操るだけならそんなものはかえって言い訳の材料になったり、人々の不平不満の材料に用いられます。そのようなはっきりと定まっていない状態の理念をいくら研修を現場に何回もしても、浸透させたものがそもそも定まっていなかったのならばそれでは逆効果にもなることもあるということです。

だからこそ理念を聴くということはその人の遺言を聴くくらいの一大事だという認識を持つ必要があると私は思います。遺言がもしも間違っていたら、亡くなった人も報われないかもしれません。本当にその人が意図したこと、その人が心の奥底から願ったものだからこそ、その言葉には真実が宿り力が発揮されるのです。それが理念の本質なのです。

そもそも理念を扱う仕事をしているのなら、まずは自分自身が理念に向き合って正直に取り組み、その取り組む姿勢のままに理念に取り組む人たちに覚悟を決めさえ応援し支え見守り続けなければなりません。

結局は人間は、すべて生き方からはじまり生き様の間でこの世の使命を果たすのですからその初心を最期まで貫徹させてあげることが本当の思いやりになります。だからこそ人は生き方を通してお互いを磨き、生き様を通して協力し合い夢を生きる仕合せに出会うように思います。

そして何よりも理念研修で大切にするのなら、理念を高所から掲げて下に振り下ろすような凶器のような使い方をするのではなく、経営者自身がもっとも低所におりてみんながしっかりとその理念を理解してくださるように自分自身が説明を丁寧に根気強く行い、粘り強く伝え、そして自分自身に至らないところがあればそれを反省し自らが謙虚に修正していくかありません。当たり前のことですがトップとはもっとも高いところにいて偉そうにするのではなく、何よりも自分に素直になって謙虚に反省を怠らないで努力する人物になっていくことです。これをリーダーとも言いますが、このリーダーやトップもまた生き方ですから言葉の意味が使う人物にとってまったく異なるのは気を付けなければなりません。

子どもたちを観ていたら生まれながらに何のために生きるのかを学ばされ、どう生きるのを真摯に歩むのを感じます。それをもっとも身近で導く大人だからこそ、私はこの理念という言葉と真摯に向き合い子どもに恥じない位置で受け止める必要があると思うのです。

言葉を使い分ける前に、その言葉の大前提の自分の初心と向き合うのが理念研修なのです。

森信三氏の言葉です。

「人間の値打ちというものはその人が大切な事柄に対してどれほど決心し努力することができるかどうかによって決まる。」

人を導くことは、生き方を与えることです。引き続き、私たちは私たちの信じる子ども第一義の理念を磨き、仲間と共に本物の理念経営、つまり初心伝承を支援していきたいと思います。

借り物

加齢と共に体の調子が悪くなることが増えてきました。というよりも、体の声を聴くことができるようになってきたといってもいいかもしれません。「今日の体調はどうかな」などずっと若いときは少しも考えたことがないほど健康でやってきました。やりたいことがあればそれをやる、そしてそれをやるだけの十分な体力がついてきていました。

しかし次第に疲れが取れにくくなったり、あちこち痛みやすくなったり、無理をした古傷が傷んだり、体が今までと同じようには動かなくなります。そう思うと人生を80年で割ったとしてもちょうど40年くらいをピークに、衰退していきはじめるとも思えます。そのピークの時が更年期でもあり、体も他の心と精神の元氣のバランスを保とうと揺らぎ始めるのかもしれません。

元氣には様々なものがあり、よく気力体力精神力などというようにあらゆる力の源になっています。生き物はすべてどこかからエネルギーを転換して、元氣を発揮していくとも言えます。その元氣を発揮するために、あらゆるところから力を捻出してきますが何度も何度も使っているうちに劣化していきますからそれ相応の力を別のところから借りて元氣を維持していくものです。

若いときは、親からお借りして頂いた力をそのまま使い切っていく。そして次第にその力が失われ周囲の仲間や友人や愛する人たちから頂いた力をお借りしていく。そしてさらには世の中や自然の力、そして他力をお借りしながらまた力を使っていく。最後は借りたものをお返ししてこの世を去っていき次の時代の力の礎になっていく。そうやって力は借りたものをまたお返しします。そう考えると、力の本体とは何か。それは「借り物」であることに気づくのです。

この体もこの力も自分のものと錯覚しがちですが実はすべて借りた物なのです。その借りたものを大切に預かり、それをお返しする。そして次の人たちや生き物たちがその力をまた借りて生きていく。借りたものが循環しながら私たちは元氣をいただいて暮らしているということです。

自分の力だと何でも思い込み、不平不満を言うのはこの借り物であることを忘れているのかもしれません。大切な借り物だからこそ、丁寧に大事に手入れしながら使い切っていく。それが力を使う、つまり力を活かすということでしょう。

体の声を聴きながら、借りものを粗末にしないよういのちを大切に元氣をいただいていることを忘れないように謙虚に素直に生きて子どもたちの力に譲っていきたいと思います。

思いの手入れ

人間は自分の前提になっている「思い」に気づいているかどうかはとても重要であるように思います。この「思い」が、現実を変える唯一のものであるからです。

そもそも現実とは自然と同じく中立で中庸です。それはこちらの都合で変えられるものではありません。しかし現実は変わらないからこそ、自分が現実に対する思い込みや刷り込みを変えることができるのなら現実は変わって見えるものです。

ある人は、毎日仕事をするのが楽しいと感じ、またある人は毎日仕事をするのが苦痛だと感じる。同じ現実であったとしても、その前提になっている「思い」次第でまったくその人生が変わっていくのです。

ある人はせっかく奇跡のように生まれてきたのだから仕合せに楽しく生きようという「思い」がある人は現実は歓びの連続です。その逆に、何でも当たり前になって不平不満ばかりの「思い」がある人は苦痛の連続です。しかしそれもまた「思い」によって感じ方が異なるのです。

この「思い」をどのように手入れし続けるか、ここに人生を左右する鍵があるように思います。ないものねだりをするとすぐにこの「思い」はネガティブになります。あるものに感謝してすべてが善いことになると信じて生きている人は「思い」が楽観的になり幸福を感じています。

つまり人間は、生き方によってしか現実を変えていけず素直になることでそれを維持していくことができるということになります。では素直にならないのはなぜか、それがエゴや私心、自分の思い通りにならない不満や不安から発生するのは明白です。

素直になるというのは、本来の生まれてきた歓び、人生の仕合せをあるがままに嬉しい楽しい仕合せと感じることです。これを天国言葉と言った人もいましたが、松下幸之助さんは「自分は運がいい」という言い方もしました。

運が善い人はどんな時も「思い」が素直なままです。言い換えれば、素直だからこそ運がいいのです。自分がここまで生きてこれたことへの感謝や、多くのご先祖様たちが助けてくださったことへの感謝、今の人生が丸ごとで素晴らしいことになっているということへの感謝など、有り余る感謝の「思い」で満たされているからです。

感謝で「思い」を満たしている人は、邪念や刷り込みを受け難いように思います。「思い」をネガティブの方へ向けるか、その「思い」を感謝に向けるか。「思い」の手入れこそが省我の実践なのかもしれません。

日々我が身を省みる・・・子どもたちの一度しかない人生の思いを大切に守り続けていきたいと思います。