子どもたちへの徳循環

最近、子どもたちに法螺貝を伝承していく機会とご縁に恵まれています。有難いことに、みんなよく吹いてくれてそれによい音を鳴動します。もともと私は、カグヤという会社を通して幼児期の子どもたちに間接的にご縁をいただいてきました。

子どもたち一人ひとりの発達を大切に見守ることを伝道してきた半生でした。

子どもたちは一人ひとりすべて発達や個性が異なります。徳があるということです。その徳をどう磨いていけばその徳が喜ぶか、それだけを支援してきました。その支援は環境を通してという場によって見守るという保育道でした。

今では環境を通して見守ってきたことから場道家として、場づくりを伝承する道場もつくり、英彦山をはじめ各地に場を弘めています。

場にはいのちが宿っています。場にいるだけですべてのいのちは育ちます。そして場を調えるのに法螺貝が必要なのです。

子どもたちが育っていく場にもまた法螺貝が必要です。現代は、便利な人工物や効率優先の環境の中では自然物は遠ざけられています。しかし、人間が人間らしく自然の一部としての自己の徳を磨くにはやっぱり自然物の方が砥石にぴったりです。

子どもたちは野生がまだまだ残っていて、すぐに自然物に適応します。その証拠に、法螺貝もすぐに上達し見事な音を出してくれます。

これからまた数本、子どもたちに伝承用に準備していきますが徳積でご喜捨いただいた方々の御蔭で未来への徳循環が実現します。

丁寧に法螺貝を通して、場を醸成していきたいと思います。

いのち宣言

昨日は、大阪万博のいのちの宣言に参加してきました。今年の2月、いのち会議が飯塚の聴福庵とBAで開催されてからそのご縁でこの貴重な機会をいただきました。人のご縁によって導かれていくというもの、まさにこれも「いのち耀く」仕組みであると私は感じています。

そもそも日本人の暮らしの中の神様は「八百万の神々」といい、そして仏様は「山川草木悉皆成仏」といいました。つまり一神教ではなく、すべてには「いのち」が存在しているという「いのちのつながり」の中ですべてのご縁と物事を感受してきたということでしょう。

その証拠に大和言葉や日本の言霊は、自然の中で繋がりながら生きているからこそ産まれたものであり西洋のように自然と人を分けたり、神と人を分けている意識では誕生することもありません。雨にも色々な雨があり、黒にも色々な黒がある。日本人の使う美しい言葉はこのいのちの象徴です。

世界ではこの分けるという便利な思考方法によって様々なものを分類してきました。その結果、思い込みや刷り込まれたものをを真実のように勘違いをしては現実から目を逸らせてそれぞれが本質的ないのちを生きることを忘れて元氣がなくなってきました。ますます世界から元氣は失われているように思います。

この元氣というのは、自然あるがままのことです。そしてそれをかつての日本人は「かんながら」と呼びました。これはいのちの道ともいい、いのち耀く生き方を実践するという意味です。

いのち宣言ではそれぞれの発表するいのちの話をたくさん拝聴してきました。ちょうど、その前日、私は「いのち輝く」を理念にしている鞍馬寺にて2日間過ごし、本堂にてご祈祷と法螺貝奉納をしてきました。鞍馬山はお山の場にいるだけで元氣が湧いてくる。まさに鞍馬山は太古のむかしから今も「場」によっていのちを顕現している信仰の実践道場です。

そして私は現在、九州の霊峰、英彦山の宿坊を中心に法螺貝をつくりその法螺貝を吹き、一人でも多く覚醒していく人を増やすいのちの甦生活動をしています。この10年で500人と定め、場を調えて暮らしを実践しています。

人類は、思い込みや刷り込みからどのように目覚めていくか。謙虚というものは、実践のただ現実の真っただ中にこそ存在します。かつて古代中国の殷の湯王が「苟日新、日日新、又日新」と洗面器に刻み毎日、顔を洗って実践をしていたことが礼記に書かれていました。徳を磨き続ける覚悟があってこそ、いのちは輝き続けるのかもしれません。

私にとって徳を積むというのは、いのち耀くということと同義です。

引き続き、神仏といのちのご縁とお導きに感謝しながら謙虚と素直の両輪でかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

いのち輝く鞍馬山の場

久しぶりに鞍馬寺にきてご祈祷と法螺貝奉納、ゆっくりと振り返る時間が取れました。気が付けば、18年間、このお山の薫風をうけて多くの学びを得ることができています。懐かしい時間は、大変さが多かった分、豊かな記憶の一部になっています。

現在の私の多くを形成していただいたこの鞍馬山には感謝ばかりです。

この鞍馬山にあるくらま山保育園の理念は、「いのち輝く」という言葉です。ちょうど本日、万博のいのち宣言にカグヤの役員と一緒に参加しますがそのテーマもいのち輝くです。

不思議なご縁ですが、私たちはずっとこの「いのち輝く」ことを本業本志にしてきました。今でも、教育を職業にせず、メソッドなどの手段を意識せず、「道」として実践する場を醸成することに精進しています。

いのち輝くには、いのち輝く場があってこそというのが生き方と働き方を一致させ、子孫や子どもたちに寄り添う本命だと感じているからです。

このくらま山は、とても温かい氣がいつも流れています。慈愛の光ともいうような自然に包まれたいのちを場で感じます。ここに来ると、いつもいのちが活き活きとしてきます。まるで不老長寿の須弥山のようです。

私は現在、九州の英彦山の宿坊で様々な活動をしていますが同じくここも天狗のお山です。天狗というのは、大地の力、地球のいのちの守護者のような存在です。鞍馬山ではこの存在を護法魔王尊と呼びます。650万年前に金星から降り立ったともいわれます。

天狗の総帥がいて、天狗たちは護法魔王尊の使者としてこの世で活躍していきます。魔を降伏させる存在となるのです。魔とは煩悩のことをいいます。これは色々な捉え方もできますが、たとえばボーとして真の自己のいのちを忘れて主人公として主体的に生きることを忘れて流されてしまうようなものです。

そこから覚醒して、真の自己を生きる、自分らしく自分になっていのちを輝かせよということになります。

なので私は法螺貝を吹いては、「螺は尊天の御心なり、驚覚せよ」と祈るのです。

よくよく振り返れば、今も天狗に見守られて私は学び続けています。有難いご縁と御恩、その徳に報いていけるようにこれからも初心を忘れずに今を生き切っていきたいと思います。

いつもありがとうございます。

 

いのちの実践

私たちはすぐに何かを知れば思い込むものです。ほとんどの人たちは思い込みの中で生活をしています。実際の現実とは異なっていても、思い込みによって常に思考を刷り込み続けているものです。自分が正しいと思い込むとき、人はそうではない世界を修正したりします。そうやってみんながつくり上げたものが常識と呼ばれるものです。

自然を含め現実は、何も思い込むことはなく事実があります。その事実を素直に観ることができるならその人は素直であり謙虚な人です。言い換えれば、刷り込まれないで思い込むこともない人が素直で謙虚ということです。よく勉強することはいいのですが、思い込みばかりを増やし、刷り込みばかりに費やしていたら現実は遠ざかる一方です。

常に実践と行動と挑戦によって、現実を見続ける精進をしていなければすぐに人は思い込みや刷り込みの中で自分の思い通りになるようにと努力をはじめます。特に経験を経て、歳をとってくると余計にその思い込みや刷り込みが固着していきます。頑固になるのも、人の話を聴かなくなるのも、また周りに耳障りのいい言葉だけを集めようとするのも高齢によるものです。偉くなっていき、自分のことが正しいと思い込み、刷り込まれたらもはや現実は直視できず妄想ばかりになります。

目の前のことに集中したり、一つ一つの脚下の実践に真摯に向き合っていると現実はいつも事実あるがままに認識できるものです。

一番のライバルは、他人との評価や他者との比較ではなく自己との闘魂です。自己に打ち克つというのは、効率や便利さ、楽を求めて一くくりにして思い込むではなく丁寧に一つのことに集中して現実を見究めて対応していく連続です。

そう考えてみると、人間は思い込まないために実践する必要があるように思います。

実践がないと人はすぐに思い込みや刷り込みに負けてしまいます。そうならないようにするには、現実の中に真摯に生きる主人公としての覚悟が必要です。

教育者の森信三先生が、「真理は現実の真っただ中にあり」という言葉があります。

まさに、現実にいるか、思い込んでいないか、真理でいるか、刷り込まれていないかと、常に覚醒し続けることを問い続ける力こそがいのちの根源であるということでしょう。

言葉というものは、何でも一くくりにできます。とても便利な道具です。そして私たちの思考も何でも分類わけしてはまとめて整理できます。これも効率的です。しかしそこに現実はあるかといえばありません。

一つひとつのいのちは、それぞれのもので個性があります。そのいのちが輝くように私たちはそれぞれに丁寧に向き合い続ける必要があります。それぞれの大切ないのち、それぞれの成長や発達があり、そこにそれぞれの無限の見守りがある。

大切なことを忘れないように、いのちの実践を紡いでいきたいと思います。

先人の初心

人は何かを行動するとき、その目的や初心があります。ただユニークだからやっているのではなく、その理由の原因と結果がそこに存在するということです。初心を大切に磨いている人は、プロセスの中に常に実践があるものです。

規模が大きいとか小さいとかはあるかもしれませんが、本来は規模は関係がなく大切なのは意識の純度ではないかと私は思います。

純度の高い人は、丁寧に経過に初心を籠めます。何のためにこれをやるのかという理由がちゃんとあるのです。忙しかろうが、大変であろうが、やるべきことは欠かしません。諦めずにコツコツと丹誠を籠めて取り組みます。その判断力は揺らぎません。

私はここ数年、老舗というものを深めてきました。

老舗の意味は「代々続く古いお店」「先祖から続く家業を継ぐこと」です。この代々や先祖から続くというのは、一体何が続いているのかということです。

それは先人の初心が続いているということです。

そして先人の初心とは何か。

これは今もその先人が生きていたとしたら今はどうするかという試行錯誤、挑戦を已まないで実践しているということでしょう。

私がとても尊敬する老舗はどこにも先人への畏敬の念と謙虚さを持っています。時代の変化の中でも初心に照らして温故知新を続けています。そこに老舗の風格のようなものを纏います。

現在、私は老舗の古民家甦生に取り組んでいますが何よりも大切にしているのが先人の初心を最も大切にすることです。もしもご先祖様が今、生きて老舗をするなら何を大切にしただろうか。

一つは、お水を守る事、一つはお米を守る事、一つは田んぼを守る事、一つは素材を守る事、一つは美味しいものを守る事、一つは人の喜びを守る事、一つは誇りを守る事、一つは人を守る事。等々、大切なことが湧いてきます。

ご先祖様に恥ずかしくないように、今の代が心を籠めて生き方を磨いていくのです。

今日も老舗を学び直すために、滋賀まで向かいます。

先人の初心を忘れずに、最期まで丁寧に取り組んでいきたいと思います。

未知とのご縁

宇宙には私たちがまだわからない未知の存在があります。科学が発展すればするほどに、宇宙には人類とは別の存在があることを発見していきます。そもそも人類だけこの地球上で他の動植物とは別の進化をしています。科学を使い、様々な道具を発明していきました。

現在は、宇宙にも行き火星などに移住する計画を立てていたりします。そんなことは地球の別の生き物たちは考えることもありません。

人間は人間そのものの中に、宇宙観で移動してきた何かの存在が関与しているように思います。それは遺伝子レベルのものなのか、それとも意識のようなものなのか、これもそろそろ人工知能の出現によって分析されるように思います。また、これだけ映像が個々で撮影できる時代になれば、望遠鏡をはじめ未確認飛行物体なども偶然が増えて撮影されていくのでしょう。

そうなると、自分たちよりも高度な文明を持つ存在に気づきます。各国政府などはそれをパニックにならないようにと隠しても隠しきれなくなっていきます。

人間は自分たちの今の状態で相手を測ります。しかしご縁と同じように、こればかりはどうしようもありません。今、出会うご縁が目の前に来れば静かにそれを受け容れる。

先人たちはそうやって、ただ変化を受け容れて変容を続けてきたから今になっているとも言えます。余計なことは考えず、ご縁を信じることによって道を歩んできたのです。

私は温故知新、復古創新を掲げて様々なことに取り組んでいます。これまでの大切な智慧を守りながら新しい智慧を受け容れていくということの連続です。

時代の転換点というのは、ご縁によって彩られ結ばれます。

どのようなご縁になっていくのか、子どもの好奇心と感謝を忘れないで日々を調えていきたいと思います。

 

みのりのひと時

昨日は、暮らしフルネス十五夜祭を徳積堂で仲間たちと一緒に味わいました。もう取り組みはじめて4年目ですが、このお月見会に参加して人生が好転した人がたくさん出てきて嬉しい報告会もしました。

不思議ですが、この中秋の名月とのご縁を結び、お月さまとの関係が深くなった人たちが健康やご縁、そして心の安定や成長などがはじまり人生がより素晴らしい変化を受けるのです。最初は偶然かと思っていましたが、4年目になりこの科学では証明できないけれど実感するほどの影響を感じます。

私たちの十五夜祭は、夕方からお月見団子をみんなで一緒につくります。今年は収穫した里芋をつかった芋煮汁を備長炭で3時間ほどゆっくり煮出してつくりました。他には、小豆をつかった酵素玄米や果物なども食べます。

月に因んだエピソードを参加のみなさんから聴いては、そのユニークで豊かな物語にみんなで笑い感動したり学んだりと和やかに過ごします。

その後は、みんなで鳥羽池(八龍権現池)に夜の散歩をしてそれぞれの場所でお月見を楽しみます。特に水面に映るお月さまは美しく、光のシャワーに心身が癒されます。十分にみんなで味わった後は徳積堂の調った場に移動して、音楽ライブの美しい音色を堪能します。

マイナスイオンと満月の光のなかで、優しい歌声と倍音を浴びるとこの一年の頑張りや努力が報われます。みのりのひと時です。最後はアンコールと手拍子で一体感を味わい、素敵な暮らしの喜びの余韻に浸りました。

暮らしフルネスというのは、暮らしの懐かしい喜びを実感することです。

何のために生きるのか、私たちはひと時ひと時の奇跡を刻みます。どう暮らしを刻んでいるのか、どのようなリズムで生きているのか、そこに先人たちのいのりや願い、そして生き方や道があります。

1000年前のお月さまも今のお月さまと同じ心があります。

人類が変わって、見た目が変化しても心は同じお月さまが懐かしい今に存在しています。日頃から私たちを見守ってくださっている存在、月の光は太陽の光が当たってただ反射したものではありません。

鏡のように私たちの心を映しています。

次は、11月2日の十三夜祭。

この秋の双子の月は、まさに人生の喜びを教えてくれる大切な存在です。

暮らしフルネスを子孫たちへ伝承していきたいと思います。

生命の配置

季節というのは、温度だけでわかるものではありません。特に最近は、猛暑が続いていますが植物や昆虫たちは秋の様子になっています。体感温度と季節の巡行は一緒ではなく、実際には太陽を公転するときの地球全体が地軸の調整を含めて季節が変わっているのです。

例えば、想像すると太陽の活動が活発であれば温度が上昇します。あるいは太陽の活動が弱くなれば温度も下がります。私たちの地球は太陽を中心に周回しながら絶妙なバランスで温度調整しているものです。

そう考えてみると、自然の方の春夏秋冬とは太陽に合わせていることがわかります。私たち人間は、衣服の着脱から空調設備などの御蔭で四季を温度で感じやすくなりました。しかし自然の方は、温度とは関係がなく地球の地軸の変化にあわせて循環しています。私たちの身体もまた本来は自然の一部ですから、地球の変化に合わせてゆっくりと同時に変化させているのです。

今日は中秋の名月ですから、先週のはじめくらいからススキを室礼しています。先人のお彼岸の時から彼岸花も満開ですし、気温と関係がなく秋の植物たちが秋らしい実りをつけています。しかし時折、アジサイや桜などが開花しているのを見かけます。狂い咲きや返り咲きとも言われます。しかし太陽の公転や地球地軸の調整の中に法則があり、その法則を繰り返すことを体験して今のかたちに落ち着いたのでしょう。私たちの遺伝子や自律神経は絶妙にこれらと連動しています。

一年中、冬の場所や一年中夏の場所もあります。しかし植物は種をつけて花を咲かし実をつけますから生き物の季節は存在します。私たちは太陽の公転と地球の変化にあわあせて生命のリズムを保ってきました。うまく寄り添い、どう周期と合わせて季節を活用するかを感覚的に近づけていきました。

生き物の変化も進化もまた、この太陽と地球、そして月や周辺の星々との関係の中で最適なタイミングを自然の法則に従って配置していったのでしょう。生命の配置というのは、奇跡であり長い歳月の智慧の結晶だったのでしょう。

よく季節を観察しながら、生命の配置を学び直していきたいと思います。

日々是道場

昨日は、故郷の氏神様、綱分八幡宮の参道のお手入れを子どもたちや同志、仲間たちと一緒に行いました。ご鎮座1300年の見守りに感謝して自分たちも何かできないかと有志でご奉仕させていただきました。

御蔭様でみんなで力を合わせて200本以上の竹を切り片づけました。この竹は、これから竹垣にしたり竹炭にして地域をより好循環するために大切に活かします。

はじめのご挨拶には51代目になる宮司さまからこの土地が嘉麻と呼ばれていたころの総鎮守としての歴史の話をしていただきました。かつてこの地域がどのような場所だったか、どのような変遷を辿ってきたのかを改めてみんなで思い出す機会になりました。

その後は私からは「見守り合い」のお話をみんなにしました。見守りは、片方だけで行われるものではない。見守りは「お互い」に見守り合った時にこそ感じられるということ。

いつも私たちはたくさんの存在に深く見守られています。この神社であれば、産まれてくる前からご先祖さまや両親、そして自分の誕生から子孫へとこの土地に守られています。例えば、生きているだけでこの場所の空氣やお水に包まれ。様々な生き物や食べ物や風景を与えてくれています。この心体のほとんどはこの場所でできたのです。そして七五三や初詣など健康や幸福を祈祷してきました。これはどれだけの歳月、ずっと同じように取り組んできたのでしょうか。いつも一緒に結ばれている心の故郷があることを神社には感じます。1300年という時をこの場で一緒に刻み、今の自分が存在しているのです。

想像力を働かせてみると、様々な自然災害や飢饉、いくさや疫病などに何度も滅びそうな苦しいときもあったでしょう。または豊かで幸福、平和なクニができたときの喜びのときもあったでしょう。歴史は決して過去の終わったものではなく、今も私たちと一緒に生きているからこそ今も見守り合いが続いているのです。

だからこそ私たちはいくら環境が変わってしまい忙しく自分のことだけで精一杯になりそうになったとしてもその見守られている存在のことを思いやり感謝して、これからもずっと見守り合い続ける関係を続けていく必要があるように思います。これは別に啓蒙活動などではなく、それが「生きて活かされる」という「生活の根源」だからです。

そして古来より、私たち日本人は「まつりごと」をしてきました。これは現代のマスコミがよく報じる人間社会の政治ではなく、神事(かみごと)としてみんなで見守り合いを実践してきたのです。本来、「まつり」とは、神様を中心に据えてみんなで見守り合い助け合うことです。まつりごとには安心感と清々しさがあります。神社のある場はそれを思い出させてくださる存在です。大切な初心を忘れないようにしていきたいと思います。

最後に、綺麗に美しく風通しもよくなり光が差し込んでくる参道をみんなで歩き祈ると懐かしい未来が観えました。伝承というものは、「場」を見守る中にこそ存在します。荒んで廃れた場は、私たちの心を見失わせます。場を調えることこそ真の教育の本義であり、それぞれの場で日々に新たに自己の心のお手入れをすることです。それが道場です。

清らかでいること、澄ましていくこと、洗うことや片づけることは素直の心のままでいることを実践することです。それが心地よいという心の状態を保ってくれます。

心の故郷がいつまでも子どもたちにとって心地よい場所のままであるように、みんなで脚下の実践を丁寧な暮らしで刻んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

これから十五夜祭ですが、月の見守りに感謝していきたいと思います。

文明の歴史

私たちは自然というものを分けてコントロールするようになってから、自然を人工的に改良してきました。その改良の歴史は長く、それは身近な動植物でも行われています。本来、野生そのものだったものを人間よりになるように改良します。

改良の仕方は現在では遺伝子組み換えや合成など、科学的に改良しますがむかしは種同士の交配や一緒に暮らしていくなかで飼育したり栽培の方法を変えるなどで工夫してきました。一度、人間が改良したものは野生に戻せないので責任が発生します。

私は烏骨鶏を飼育していますし、野菜や薬草なども育てていますがそれを急に野生に戻しても周りに馴染めず消えてしまいます。人間が一度でも改良することは、野生的には改悪になることもあります。遺伝子組み換えなどは、自然には馴染まないのはずぐにわかります。

これはウイルスや菌でも同様のことが発生します。そう考えてみると、改良しているのは実はその対象物ではなく人間そのものになっているようにも思えます。

人間の方が改良されると、野生に戻れません。これは同じことが起きています。そうすると、野生で生きられないから野生の部分を破壊していきます。この世の中をすべて人工的に住みやすいように改良しようとしていくのです。

そもそもこの地球は人工物ではありません。先ほど言い方をすれば野生物です。その野生物を改良して人工的な星にしようとするとどうなるか。誰でもすぐにその結果がわかります。

人間は自分の中にある野生の部分を改良できるのでしょうか。人間が人間を飼育してしまえば、もはや野生に戻る方法もありません。人類は、野生に戻るような何かの自然災害などが発生するときどうなるのでしょうか。

むかしの人たちは野生を持ちながら許される範囲内で人工的に生きてきたように思います。その範囲を超えたら星を浸食しつくしてしまうからです。改良の歴史は、文明の歴史でもあります。

本来の調和はどの辺なのか、色々と試行錯誤しながら学び直していきたいと思います。