天命に生きる

先日、英彦山の宿坊で新たに甦生する法螺貝の祈祷をしていると不思議なことがありました。いつも通りご供養の準備をし、火を熾し、お香を焚き、法具の音を響かせお経を唱えます。そして一つひとつの法螺貝をお水で浄化して手当をしお清めしていきます。その後は、祝詞をあげて静かにいのっていると風が吹き、水が吸い込まれ、外は晴れ間なのに大粒の雨が降ってきました。

すると虫たちの声が静かになり、空間が凛と佇んできます。何か大きな存在が入ってきている気配です。じっとしてはいられず、玄関にでると眩い光が差し込んできます。木々は揺れ、土は沈み、家が鳴ります。

私は一般的に目には観えないものを感覚では捉えますが、それを敢えて幽霊だとか妖怪だとかはいいません。しかし、明らかに気配というものがあり何かに呼応する存在は誰にも感じることができるものです。

今回は、私一人でしたがきっと他にも人がいれば明らかに異様な場の変化に霊感がなくてもすぐに察知できるようにも思います。それだけ人の意識や場の理念は、何か偉大な存在と常につながっていてそれを呼び覚ますことができるのです。

私はむかしから感覚が鋭く、特に掌や足裏、耳や背中、臭いなどにも敏感です。すぐに気配を感じるタイプで、いやな気配や予感がするとすぐにそれを避けます。その御蔭で何回も事故や怪我、自然災害などを避けてきました。日常では、誰かの病気の深刻さや亡くなる時の時機、あとは考えていることや念のようなものもすぐに感じます。疲れてしまうので、日頃は感覚を閉じて氣を逸らしています。よく電話のタイミングや内容を先に分かってしまったり、来客が来ることがわかっていたりします。他には天候や先に起きることがなんとなくわかることがあります。

統計学で経験というものかといえば、先に未来の予感が来ていますから統計ではないかなとも思っています。きっと、訓練すればもっと洗練されて感覚を可視化したり活用する手段も増えるのでしょうがあまりそれに興味がありません。

長年、ご指導いただいた私のメンターの鞍馬寺の信楽香仁前貫主は私に感覚よりも実践することを尊ぶように諭してくださいました。その御蔭で、人生がさらに豊かになり現実の真っただ中に自分の場を投影することができています。

現実や事実というのは、自己を磨く砥石です。目に見えるものをどう眼には観えないものと調和させていくか。この世は、誰もが同じ人間でありそれぞれの場所で人間性を磨いています。

私の目指すいのりは、龍と共に生き、龍となることです。

龍とは、現実の世の中に居て自然の調和を司る存在です。法螺貝の御蔭さまで、色々な龍とのご縁が深まっています。丁寧に磨き甦生し、自分の天命を全うしていきたいと思います。

 

思いやりの実践

人は思いやりがあるかないかで、信頼関係が変わってきます。もちろん、仕事を含めた結果に対する能力などもありますがそれは機能としての信頼です。実際には、人には心がありますからそこには思いやりが必要です。

例えば、いくら言葉を交わしても対話にならない場合があるとします。これは思いやりが欠如しているからです。思いやりとは、自分の感情を優先して相手の感情や状況などを尊重しないときには出てこないものです。

人間は自己保身といって、自分を守ろうとすればするほどに相手を思いやりません。そして信頼関係が構築できないほど自信も失われます。そもそも自信というのは、自分に対する信頼のことです。自分に対する信頼関係が築ける人は、他者との信頼関係も築くことができるです。つまり自己と他者の信頼はイコールであるといえます。そして自信をつけるというのは自他との信頼関係を築く実践があるということです。その実践は思いやりの実践のことです。

「思いやり」という言葉を辞書を引くと「他人の気持ちや状況を察知して配慮すること」と書かれています。自分の感情をぶつけて関係を破壊する前に、相手の立場や状況、そして客観的な事実などをよく観察して、慮り相手を心配をするということです。いつも配慮して敬意をもつ態度で人と接する人は、信頼関係を誰とでも築けます。信頼関係は、この逆をすることで簡単に崩れます。

実際には、私も忙しい時や体調がよくないとき、余裕がない時はどうしても思いやりが持てなくなります。そういう時は休むことが一番ですが、たまたま忙しさが重なり休みが取れないほどになると周りへの配慮が失われていくものです。そういう状態の時に、人間関係のトラブルなどがあれば相当な打撃を被ります。思いやりというのは、苦しい時にかけてもらえると救われますが苦しい時に心無い攻撃を受けると精神が病んでしまいます。

現在、テレビや新聞、週刊誌などでこれでもかと叩かれている人をみますがあれに思いやりを感じることはありません。精神が病むまで追い込み、追い込まれない人を鋼のメンタルなどと書いてはこき下ろします。

思いやりのない社會をつくろうとすれば、このように心無い言葉を浴びせていけばいいのです。これでもかこれでもかと、思いやりのない攻撃を続けていった先にあるのは信頼関係の破壊です。それは自信を奪い、自己への信頼も歪みます。親しき中にも礼儀ありというのは、どんな人であっても思いやりを忘れないでいるための格言ということでしょう。

そしてどんな時でも思いやりを忘れないような自分でいるために深呼吸をする実践が必要になるように思います。現在、法螺貝を吹いていますが法螺貝は深呼吸にとてもよい効果があります。自分の感情がどうであっても、深呼吸をするように音を出せばその音は変わらずいつもの不動の音です。

不動の音は、相手が誰であっても思いやりを持つということ。自分の思い通りにいかなくても、自分の都合よく事が進まなくても思いやりだけを忘れないという実践が社會を目覚めさせることにも結ばれるように思います。思いやりは相手からもらおうとするものではなく、自分が先にもつものです。

信頼関係があると、疲れませんし元氣もでて勇氣も増え、自信に満ちて居心地がよくなります。思いやりは相手の問題ではありませんから、思いやりを実践して日々に調えていきたいと思います。

 

炭竈

現在、浮羽の甦生中の古民家で新しい炭竈をつくりこんでいます。竈の土は、有機無農薬の主人の田んぼのものを使います。この炭の竈は私が炭を中心に使うことで愛用しているものです。聴福庵も同じ炭竈です。炭竈のよさは、煙が少ないこと火力が優しいこと、また片付けがしやすく再利用もでき、灰もまた美しい灰がとれます。また長い時間をかけて行う料理にも向いていて、薪よりも火力の調整や管理がしやすく見た目にも火がゆらゆらを柔らかい明かりを放ち癒されます。

竈には三宝荒神さまをお祀りしています。この三宝荒神さまとは火と竈の神であり、神棚は家の中で最も清浄な場所である台所に祀る神様です。一説によれば、日本では聖徳太子の神格化した化身ともされ七条憲法の「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧これなり」に基づいたもの。仏法僧の三宝を守護されている神さまであるといいます。

もう一つの由来の説は役行者が金剛山で祈祷していた時に艮の方角に赤い雲がたなびいて荒神が現れたのでその場所に荒神を祀ったという伝承です。修験道や神仏習合の神様でもあり、不浄を嫌います。

台所というのは、いつも綺麗にしている方が清々しいものです。水場や火を扱うところは、気持ちが荒めばそこからよくないことがたくさん発生します。これは井戸でも同じですし、トイレなどでも同じです。不浄になりやすいからこそ、そこをいつも綺麗に美しく浄化していく。

私は炭を使いますが、炭は澄であり浄化の徳を具えた素晴らしい存在です。その炭を用い、場には水晶をいれますが相乗効果で浄化されます。今のガスや電気の便利な時代でも、炭竈を超えるものはありません。

それだけお水もまろやかになり、すべての素材の味を引き出します。

時代が変わっても、本質や普遍を求める求道者たちのパートナーは先人の智慧です。心から感謝して、新たな竈の息吹を見守りたいと思います。

徳の場

場の力というものがあります。これは場が力があれば何でも好循環する力のことです。それを私は徳の場とも呼びます。私が取り組む実践はすべてこの徳の場を顕現させるものです。場の道場では、この徳の場についてを学びます。具体的には、何が徳積循環になるのかを学びます。徳積だけではなく循環という側面から場を學ぶのです。

これは田んぼと稲の関係、家と暮らしの関係、腸と微生物の関係などにも一致するものです。徳積循環していくと場が生まれ、その場には偉大な力を発揮するものです。太古のむかし、親祖より今に至るまで私たちは場の中に存在しています。その場をどう居心地がよいものにしていくか、それを突き詰めていく中に真の調和や平和があるものです。

私は徳の場というものを体験していただくために場の道場を運営しています。場の道場の中では、暮らしフルネスという実践を通して具体的に如何に場に自己を投影してその場を磨いていけばいいかを実習します。

場ができることで、その場から世界がよりよくなります。私は真の人間性は自然の道、かんながらの道の中にあると信じていますから場こそすべての根源です。

言葉で説明すると場はなんとなく理解できますが、実際には場は来なければわかりません。場で感じてもらうというのが私の方針ですから、場ではないところで文章にして言葉にして語ってもそれを理解してもそれを実体験できるわけではありません。

なので、徳の場で行われていることを通してそれを味わっていただくことで何かを感得していただくのです。これは料理に似ています。磨き上げられた器に、丹精を籠めて見守った自然農の新鮮な野菜を一つ載せ丁寧に食べていただくような純粋な営みです。私の特徴はそれを炭火を用いることです。

私にとって炭こそが場の最高の触媒となります。

徳の場に興味のある方は、場を体験してみてください。ご縁のある方、一期一会の使命と志をお持ちの方をお待ちしています。

法螺貝の甦生

現在、英彦山で法螺貝を甦生していますがせっかくなので甦生の特徴というものを整理してみたいと思います。

まずはじめに、法螺貝を持つためには法螺貝とのご縁が必要です。基本的には、法螺貝の甦生はすでに法螺貝をお持ちのご紹介者を通してか直接、英彦山に来てお話をさせていただく方しか受け付けていません。その理由も、顔や波動を観てご縁を確認してから理想の法螺貝を探していくからです。またすでに何らかの理由で法螺貝とのご縁がありお持ち込みの方も受け付けています。ただし、他の方が手掛けたものは甦生できないものもありお断りすることもあります。

流れは下記のようになります。

① 霊峰英彦山の守静坊にて吉日を選び法螺貝を安置し地下から湧くお水で清め光を当てて龍音によりご祈祷をする。

② 丁寧に洗い法螺貝の先端を切断し削りその貝の個性を見定めて螺旋の息が通るように調整する。

③ 手作りの唄口を天然の地下水と麻炭を使い石膏でつくりこむ。

④ 唄口を法螺貝に取り付け調律をし、その法螺貝の唯一無二の音を確認したらそれを立てて天地に調和する。

⑤ 完成のご祈祷をし、木の中に安置する。サイズや重さ、証明書と手引書を用意する。

⑥ 英彦山の守静坊にて法螺貝を磨きお手入れをし息を吹き入れ音と和す儀式をする。

⑦ 希望者には法螺貝の網袋の講習を実施し、英彦山遊行や法螺貝講習、仙螺講への登録をご案内する。

⑧ 定期的にメンテナンスをして、法螺貝の成熟を見守る。

ここまでで法螺貝を甦生したことになります。

この法螺貝の甦生とは単に音がなる楽器をつくったのではなく法螺貝が新たないのちを得て独立自尊し、一期一会の主人と調和し結ばれ、日々の暮らしを通して寿命をのばし幸運をもたらす存在になることを言います。ただのモノではなく、新たないのちの法具として人の一生を円満に見守る存在になります。

また時には修繕や供養も行います。修繕は、お手入れをして法螺貝の成熟に合わせて調えていくこと。供養は長く大切にしてきた存在の魂を慰め労い癒すこと。法螺貝の甦生とは別に、手掛けた法螺貝のお手入れや追善をします。

講習会では、お手入れの仕方をはじめ法螺貝の吹き方、法螺道の実践事例などもご案内します。時にはお山に一緒に入り、三省をし六根清浄をしながら法螺貝を立てます。また時には、法螺貝の網袋づくりを通して瞑想や見守り、寄り添いなどの心の在り方を学び合います。宇佐の大仙龍(大先達)の立螺師にも定期的に来ていただき、法螺貝の具体的な指導や講習会もあります。

お支払いは、法螺貝の仕入れ原価、唄口と石膏、加工の原価をいただきます。それ以外は、徳積循環のご喜捨とお布施を「徳積帳」というブロックチェーンを使って開発したシステムにて奉納いただきます。

納期は約1か月ほどいただいていますが、吉日次第では納期がかなり延びる可能性もあります。大量生産はできませんので、丁寧に一つひとつ甦生していきます。

現在も、制作中ですが一生の御守りや魔除けになり音がその人の波動を磨き、唯一無二の光の存在になっていくように手掛けていきます。

最後に最も大きな特徴は「調和」を何よりも優先して法螺貝を甦生しているということです。私が手掛けるものは調和の法螺貝です。それをご理解いただく方のみ、ご連絡をいただきたいと思います。

法螺の道

昨日は、英彦山守静坊にて法螺道仙人の仙人苦楽部を開催しました。30名以上の法螺貝仲間が参加して、みんなで法螺道を学び合いました。法螺の道の面白さや楽しさは言葉では説明できず、生き方や実践から氣づくものです。私もまだまだその入り口のほんの少し先にいるくらいですが、法螺貝のお導きや奥深さに感動と感謝、そして感銘を受けることばかりの発見の日々です。

法螺貝の魅力は、とても語りつくすことができません。そして法螺貝を通して出てくる音の世界、そして波動の場は神秘な領域です。いのちが調うだけでなく、場が調い、宇宙を感じます。

目に見える世界と目に観えない世界、耳に聞こえる世界と耳に聴こえない世界があり、その境界をも取り払うことできるのが法螺貝の道の一つです。別の言い方では常識を超越するのです。

私が尊敬している大仙龍(大先達)と一緒に法螺の道を語っている最中も法螺貝の楽しさと喜びと豊かさで早く法螺貝を吹きたくてうずうずしワクワクします。人生の中で自分の唯一無二の音や一期一会の法螺貝に出会えた奇蹟を仲間たちと一緒に味わいたい、その純粋な思いや、平和への願いが法螺道を弘めていく理由です。

法螺貝と関係が深い仏教では聖者のことをかつて羅漢と呼びました。聖者とは高い精神性を持ち、実践を通して人々を導いていく存在です。日本でも五百羅漢というものが有名ですが、これは仏陀に最初に付き従った五百人の聖者のことです。今年の初めに、スリランカで最初の仏典結集の場所を見てきましたが、その場所こそ五百羅漢がはじめて集まった場所でした。

時代が変わっても、高い精神性を持ち実践をし、宇宙の真理に覚醒して本来の人間性とは何かということに目覚め伝道する人たちは常に出てくるものです。それが調和の本質であり自然なことです。

英彦山から法螺道を歩む羅漢たちが五百人集まれば、九州から日本、そして世界を変えていけるようにも感じます。私も法螺貝の鳴動が、真の人間性を回復させあらゆるものと調和する存在になっていけるように引き続きお山で徳を磨き精進していきます。

私たちが目指す温故知新する新たに甦生する講の姿は、徳積循環です。それぞれがあるがままの自分らしい唯一無二の音で透明な波動を輝かせます。自らの喜びがみんなの喜びになる徳積がめぐる世界。

これから徳を積む法螺吹き羅漢が五百人、真心を解き放ち愉快痛快に新たな夢に向かって挑戦していきたいと思います。

全体快適

全体最適と部分最適という言葉があります。全体と部分というのは分かりやすい使い分けの一つです。例えば、病気であれば部分最適は病気だけを見る時に診断できます。専門分野に分かれればその怪我や病気のみに集中して分析します。全体最適だと、根源的なものを未然に防ぐためのもの病気の原因などを分析します。両方から観るということもあるのでしょうが、これらは物事の観方の方法で手段です。

実際の世の中は、常にこの全体最適と部分最適で分析されます。そもそも分析という手段は、何を分析するかですが実際には全体の分析というものは大きすぎてできませんし、部分最適は小さすぎてできません。できないからと直観で分析すると、根拠がないやエビデンスがないと証明できません。

むかしは、達人や熟練者、長老やその道の先達という人に観てもらうことが多かったように思います。長い歳月に磨き上げられた経験からの智慧は、全体も部分も見透します。そのうえで、直観的に感得して見定めることができるものです。

いくら便利な時代で、AIがあらゆる知識の全体最適や部分最適を分析したとしてもそれが達人や熟練者には敵いません。もちろん、将棋の世界やモノづくりの世界ではAIが人間を凌駕しているともいわれます。しかし日本刀のような古刀をつくることはできていませんし、自然農などの智慧をもつこともできません。自然は常に全体も部分も快適にしています。それは徳が循環するからです。

この徳の循環は居心地がよく、快適にしていきます。快適というのはみんなの喜びが自分の喜びであり、自分の喜びがそのまま全体や部分の喜びにもなるということです。あるがまま、ありのまま素直であればそれで自由自在に快適になるという状態です。

人間だけでこの世に生きているわけではありません、いくら全体最適だとはいってもそれはどこまでいっても部分最適でしかないものです。だからこそ全体快適を目指すことが大切だと私は感じます。

唯一無二、一期一会、今此処であることは全体の一部になっているということでもあります。子どもたちや子孫のためにも、引き続き徳の伝承をして全体快適を実践していきたいと思います。

交流の歴史

昨日は、韓国から約9名の方々が来日されBAにてブロックチェーンの情報交流会がありました。こちらからは福岡県、飯塚市、またFBAのメンバーで対応し私たちの取り組みや考え方などをお伝えしました。

そもそも隣国、韓国との交流は長い歴史があります。特に福岡は韓国に近いことと、中国からの文化も朝鮮半島経由で入ってきたので大和政権のときよりもずっと前からの交流の歴史があるはずです。

むかしは国家という概念がそこまではっきりしていなかったでしょうから、お互いに往来しては協力しあっていたように思います。通訳の言葉を聞いていても、時折日本語そのままの言葉が出てきます。言葉の中にもお互いに交流の中で誕生していた共通言語があることもわかります。

なんとなくですが、KPOPや日本のアニメ、コスプレ、サブカルチャーも似たところがあります。顔も雰囲気も似ていますからきっと何度も繰り返し積み重ねてお互いに結ばれてきたことがあるように思います。

歴史的なところで領土問題や他にも様々なことを抱えてはいますが、それはすべて最近の歴史です。そして歴史は止めるものではなく、本来は今も改善してよりよく発展させていく中にこそ生きた歴史があるものです。

文化的な交流をしていくことは、かつての歴史を今にも甦生していることであり今の時代もこの先の時代もお互いにとって大切なことのように思います。

お互いに尊敬しあえるような関係をいつまでも持ち続けられるように、自分たちの文化や先人たちの智慧や伝統を守っていきたいと思います。

新しい郷土料理

現在、故郷の郷土料理を甦生していますが色々と新しい発見ばかりです。そもそも郷土料理は、どのように誕生したのかを自分で手掛けていると色々と感じることがあります。その土地の人が、どの場所で産まれ育ち、その土地にしかないものをどうやって美味しく食べてきたか。

郷土料理はただ地域のものを食べたのではなく、それをどのように美味しく食べたかということにも由ります。発酵食品なども保存するためのものだけではなく、美味しかったから発酵食品になったともいえます。美味しくて長く食べられるというのは仕合せと直結しています。

以前、コロナに感染したときに味覚がなくなったことがあります。何を食べてもゴムのような味わいであまりにも辛くて暮らしの景色が白黒になりました。それくらい味がないというのはつらいことで、私たちは味覚があるからこそ美味しいと感じ、美味しいと感じるからこそ喜びを味わえるのです。

その土地の味わい方というものが郷土料理には出てきます。私は故郷を愛し、自分でこの土地で育ててきた伝統在来種の高菜を深く尊敬しています。高菜は漬物という認識やご飯の脇役などという人もいますが、私にとっては主役そのものです。

この主役がどのようになったら美味しくなるのかを追及していたら、新しい郷土料理が誕生しました。ある人は、ここは何も目新しいものがないとか目玉がないとか、温泉がないとか観光に向かないとかいう人もいます。その土地に住んでいながらもったいない暮らしをしているなと感じるばかりです。

いるところ、自分の場所や土地が最幸だと信じている生き方をしている人は毎日がキラキラを美しいものにばかりに出会い感動の日々を過ごします。そうではない人は、自分の土地や故郷を蔑んで文句や不平不満ばかり言います。こうなってくると、もはや生き方の話であり故郷は土地は関係がないことに気づくものです。

不思議なことですが、今居る場所が素晴らしいと信じる人や、今居る場所こそ最幸の場所、この土地で誕生したものはすべて美しい徳を持っていると感じる人たちは観える景色が変わり、そして食べ物の味も変えていくのです。

つまり郷土料理とは、その郷土で育まれた人の生き方の結晶ということでしょう。

他の郷土料理とは比べるものではありませんが、故郷の誇りと郷土料理への尊敬を思いこれから新しい郷土料理を子孫たちへと伝承していきたいと思います。

古民家甦生の本質

ある人から古民家甦生をもっと商売でやったらいいとアドバイスされたことがあります。現在、どの古民家も評判がよく甦生してきましたがそもそもこれはただ建物を直しているのではありません。私が甦生しているのは、目的でありそのものの初心や理念です。建物は一緒に甦生しているだけのものです。

通常の商売で行う場合は、建築基準法をはじめ様々な法律やルールがあります。現代の日本建築は、どちらかといえば新築を建てるためのもので古民家などはリフォームしていますが実際にはあれも新築しているだけです。空き家がこれだけ増えてもなお、修繕よりも新しい場所に新築を建てます。古民家においても、新しい材料で新しいものにします。古民家風の建物がこの数年で増えては、私にも似たようなことをしてはどうかと勧められたりします。

そもそも古民家風のものは、古民家ではありません。こんなことを書いてしまうと、いろいろと批判的な方から何か言われそうなものですが実際には和風と和は異なります。例えば、よく話す話に和紙は楮やミツマタなどの原材料で手漉きで行います。和紙風はパルプや木材で機械で見た目だけ似せていきます。そこに伝統や伝承などはありませんし、意味も理由も異なります。本質が異なるのに和紙という言葉でひとくくりすることはできません。

私の古民家甦生もまた本質が異なるのに、他の古民家再生と同じにはできません。なので私は敢えて再生ではなく、甦生という言い方をします。

そもそも甦生というのは、そのものの素材や材料を日本文化で伝承調理して新たに寿命を延ばしていくことです。つまり今までの生をさらに別のものにして寿命を延ばすのです。つまり、生まれ変わる、新たにするということです。これは理念や初心をきちんろ磨き直して新しくすることに似ています。

つまり建物を新築にするという意味ではなく、そもそもの理念や初心を新たにしていくということ。そこに建物もその理念や初心に合わせて変わっていくということです。それが私の場づくりの本懐です。

なので、商売のように金銭だけでできる仕事ではなく思いや人伝えでしか受けることはできない一期一会の唯一無二の取り組みになります。

なんだか大げさに聴こえるかもしれませんが、本質的なことをやろうとすれば現代では色々な価値観やルールによってできないことがほとんどです。しかし不思議ですが、ちゃんとできるように何者か神様から導いてくださって今があります。

引き続き、丁寧に甦生してこの世でのお役目を果たしていきたいと思います。