いにしえからの風

「萬古清風」という言葉があります。これは中国・唐時代の漢詩の一節で禅語でもよく見かけますが「はるか昔から清らかな風が変わらずに吹いてくる」、「古きにも新しきにも全ての時空にあまねく清風が吹く」という意味で用いられます。

とても素敵な言葉で、大昔の古来から永遠に風が吹いている様子に心が洗い清められるようです。私たちは、昔の教えや知恵、先祖の生き方や伝承などをお聴きするご縁に巡り会うと、古来より何が真実であったか、そしてむかしから何が根本であったかに気づき有難い思いがしてきます。

それはまるで、何百年前から何千年前も、そしてこの今に向かって彼方から風が吹いて自然の循環が已まないで私たちに恩恵を与え続けてくださっているかのようです。

これは御先祖様の遺風や遺徳なども同様に、今の私たちがあるのは何の御蔭様かを思い出すとき、そして子孫の行く末をいつまでも案じてくださっている親心を感じるときにこの清風を感じられます。

人間は私心を捨て去り、万物一体善の境地になれば心が澄み渡り自然そのもの、言い換えれば神人合一の境地に達します。その崇高な穢れなき魂は至純であり透明で水や光そのものになります。

そうやって無私の境地でいのちを奉げてきた方々の陰徳は、忘れないで居続けることでいつまでも子孫にその徳風が吹き続けてきます。この徳風とは、無私の人たちの生き様から吹いてきます。その吹いてきた徳風が心身を通り抜けていくとき、私たちはその新しい風をいつまでも浴びることができ、その新しい風によって私たちの記憶もいつまでも甦生し続けていくことができます。

いのちの甦生です。

いのちがこのように甦生し続けるのは、まさに萬古清風の御蔭なのです。

いつの時代も人間である以上、自分との向き合いは人間の課題であり、その中で私心が私欲に呑まれる人と私心や私欲に打ち克つ人がいます。しかしその生き方の模範として、魂を極限にまで磨き上げ美しく光る人たちが子孫たちに徳の道を繋いでいきます。

道は終わりなく、また魂も廃ることはなく、永遠に風が清め続けますから私のその風の一吹きになって子どもたちの行く末を見守り続けていきたいと思います。いにしえからの風になりたいと思います。

歩み方=生き方の改善

人は小さな習慣の積み重ねで経験を積んでいくものです。継続は力なりともいいますが、小さな日々のことをコツコツとやるかで未来の出来事を手繰り寄せていくものです。しかし、このコツコツと行のを面倒だと嫌がり目に見えてすぐに結果が分かった方がいいと焦るのは心に不安があるからとも言えます。

心が安定している人は、コツコツと地道に一歩ずつ取り組んでいくことができます。これはコツコツと地道に一歩ずつ取り組むから地に足が着いているため心が安定しているとも言えます。頭と異なり心は常にちょっとずつ活動しているからです。

心をなおざりにしてやったりやらなかったりしその分、一気に結果だけの帳尻を頭で合わせようとすればそれだけ心が不安定になります。そして不安定になるからまたマイナス思考になり焦り結果ばかりを追いかけてまた地から足が離れて空回りするのです。

心というものは、目には観えませんが自分の体と一緒に歩んでいるものです。体の足が一歩前に出れば、一緒に心もまた一歩前に出る。これを同時にしていくことで、現実や真実が変化していくのです。

自分がいつまでも変化しないのは、自分が一歩足を前に出してもいないのに心だけは10歩や100歩など先に先にと進めようとしている時です。これは体と心が和合していませんから、ずっこけてしまいます。心と体はまるで二人三脚のように、息を合わせて一緒に歩んでいくことではじめて前進していくのです。

日々に心の一歩と、体の一歩は、具体的に言えば、思いを醸成する一歩と、具体的に実践する一歩を同時に行うことをいいます。例えば、何かを決断し行動すると決心したのなら、何かを已めて何かを始めるという具合に心と体を一致させていく必要があります。

そのために人間は、自分の一日を反省し、「自分の一歩はどのような一歩だったか」と振り返り次の一歩に向けて改善していくことで、歩き方を変えていくのです。

人生も同様に、歩き方を変えていくというのは生き方を変えていくということです。自分の歩き方は、一歩一歩、自分で意識しながら変えていくしかありません。

人間は怪我をしたり病気をして立ち止まり、上手く歩けなくなる時こそ、自分を変えるチャンスであり、もう一度、一歩一歩歩き直す中で自分の歩き方を見直していきます。そうやって歩いていけば、生き方も同時に変わり、人生も変わり、未来も今も変わっていくように思います。

一歩一歩と地に足が着いている人は、不平不満を言う暇がありません。一つずつ、丁寧に取り組んでいこうと改善することに着手し日々の一歩を豊かに楽しんでいくように思います。その歩み方は軽やかで楽しく、安心して歩み続けてきます。

人生は自然と同様に周りは日々に変化を已みませんが、その中でもどのように歩んだかは自分の歩き方で決めていくことができます。どんな状況でも歩くというのは、どんな状況でもこのブログに取り組む私の姿勢も歩み方を磨く大切な砥石です。

子どもたちのためにも道が続いていくことを祈り、日々に歩むことの大切さを伝承していきたいと思います。

永遠の友情

人間は様々な出来事や機縁を通して共に信頼関係を築いていく中で、お互いの心を通じ合わせていくものです。そして仲間や友達といった、人生を彩る豊かな人間関係を形成していくことができます。そしてそれは一瞬でできるものではなく、長い時間をかけてじっくりとゆっくりと醸成していくものです。

アメリカの初代大統領であるジョージ・ワシントンは、『友情は成長の遅い植物である。それが友情という名に値する以前に、それは幾度か困難の打撃を受けて耐えなければならぬ。』という言葉を遺しています。

友情は一朝一夕でできるものではなく、長い時間をかけてお互いに磨き合い錆びない関係を築いていく中で育っていくもののように思います。

「友」という字の語源は、「右手と右手を取り合う」象形から「とも」を意味する「友」という漢字できました。また同じような意味で「朋」は、「数個の貝を糸で貫いて二列に並べた」象形から「とも」、「友達」、「仲間」を意味する「朋」という漢字ができたといいます。むかし貝殻を、糸でつなぐことは家族や仲間の証であり古代の人たちはその首飾りをすることでこれだけの友達がいる人間であると相手に伝える手段にもなっていたとも言います。

自分が困ったときに助けてくれる存在があること、自分が仕合せな時に一緒に喜び合う存在があること、そして人生のあらゆる喜怒哀楽の感情と共にそれを分かち合える人の存在があることが心を和ませ心を癒し安心する人生を支える土台になっていくように思います。その友情は、立場や肩書などを超えて本物になればなるほどに真実の関係に近づいていきます。

しかしこういう言葉も小林多喜二は遺しています。

『困難な情勢になってはじめて誰が敵か、誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。』と。

実際の友人の人生が何かの出来事によって社会的制裁を受けたり、犯罪者のようになったり、もしくは裏切りというような場面に出くわした時、その時、友情は試練を迎えます。その時、大切なのはお互いの生き方であり、自分自身が大切にしている人生の物差しのようなものが試されるのです。

真の友情は、自分の中にもその友と同じものを持っている中でどれだけゆるすことができるのか、どれだけ信じ抜くことができるのか、そして人生の中で生き方を優先できるかという思いやりや真心との正対になります。いわば、信念のようなものが問われます。

真の友情を持てる人は、その心に真の生き方を持てる人かもしれません。しかしそれもまた永遠の時間をかけて醸成していくものです。だからこそ友情は永遠というのでしょう。

子どもたちのためにも、生き方を貫き、徳を高め、一期一会の永遠の友情を醸成していきたいと思います。

清明心~徳の祈り~

先日、終戦間際に「特攻」をして亡くなった若い方の遺言やメモを拝見し色々と考える機会がありました。この特攻は、「特別攻撃」の略で敵に対し、兵士自身が兵器を抱えて突撃、もしくは兵士が搭乗する兵器をぶつけて道連れにする自爆攻撃のことをいいます。

お国のために死ぬと分かってて突入する、その必死の人物たちはどのような人たちだったのか、今のように平和ボケしてしまっている現代においては戦争のことすらも理解するのも難しいように思います。

その特攻の方々の遺言やメモを観ると、大切な国を守るため、大切な人を守るためにと、自ら真心で命を懸けて前向きに生き切った証が随所に残っていることが多いように思います。そしてその特攻する人たちを見守った人たちの覚悟もまた、想像を超えるような命をやり取りばかりです。ただの愛国心という言葉で片付けられるものではなく、生き方として真心や誠実に生き切った人たちから私たちは生き方を学び直す必要があるように思うのです。

今度お伺いする鹿児島の知覧には、特攻の母とも呼ばれ親しまれ、特攻隊員たちを息子のように真心で見守り続けた人物がいました。富屋食堂を切り盛りしていた鳥濱トメさんが、戦後、遺族や生き残った人たちが知覧を訪れた時、泊まるところがないと困るだろうという気持ちから、特攻隊員たちが当時訪れていた建物を買い取って、来訪者を泊めている旅館を買い取り子孫の方々が語り部として経営しておられます。

この鳥濱トメさんは、訪れた人たちに「とく」という漢字を掌に書いてくださいと言っているそうです。その上で下記のような言葉を伝えるといいます。

「善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。命よりも大切なものがある。それは徳を貫くということ。」と。

そしてこう仰ったといいます。

「私は多くの命を見送った。引き留めることも、慰めることもできなくて、ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。だから、生きていってほしい。命が大切だ」と。

人間はどんな極限的な状況であっても、誰かを思いやり誰かのために自分の真心を盡そうとします。それがたとえ悲惨な運命であったとしても、自分自身の真心のままでありたいと思うものです。それが日本人が大切にしてきた清明心でもあります。

清らかで素直に明るく正直に、思いやりをもって優しく生きた人たちの生き様こそが本当に遺していきたいものだったのかもしれません。「人徳」とは、人間が生きる道であり、人間が人間として磨かれ玉として顕現する最期の姿なのかもしれません。

以前、島浜トメさんと同じように「徳という自を書いてみよ」とはじめて致知出版の藤尾社長からお聴きした13年前を思い出しました。あれから生き方をどう磨いてきたか、改めて振り返り原点回帰したいと思います。

 

 

徳の本体

「徳」という言葉があります。今の時代は損得の得ばかりが優先されているようにも思いますが、この「徳」は人間が本来備わっている天性の種でありそれをどう育てていくかで今や未来が変わっていくものです。改めてこの「徳」とは何かを少し書いてみようと思います。

松下幸之助氏は、「人間として一番尊いものは徳である」といいます。

本田宗一郎氏は、「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか」といいます。

吉田松陰においては「士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない」といいます。

論語や老子、修身など学問をするものたちにとってこの「徳」は中心に置かれ、その徳を歩むことこそが人間の道であるともいいます。

しかしその徳はどのようなものか文章で書けということになるとはっきりしません。松下幸之助さんもこのように語ります。

『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』

この徳は、頭や知識で理解するものではなく心境によって学ぶものです。ただ良いことをしたら徳かといえばそうではなく、徳は目には観えないものだからこそ心で悟るしかありません。

例えば、太陽の徳とは何か。日々に私たちを照らし続けていのちに大切な光を与えてくださっています、これを徳とも言えます。他にも太陽は私たちが目には観えない偉大な効果や効能があり、万物を活かします。言い換えるのなら太陽の徳は、陽徳ともいい、明らかにはっきりと徳が観えますが同時に目には観えない陰徳もあります。この陰陽の徳とは、万物の徳のことを指します。

これだけ徳というものは、生きていく上で欠かせない恩恵のことです。太陽を擬人化するのならそこには自己中心的な生き方はなく、万物を活かし続けていく生き方があります。そこは無為自然であり、我欲のない澄んだ真心の姿があるのみです。

老子はその徳にも最上の徳があるといい、それをこう表現します。

「徳のある人は自分の徳を意識しない、それは徳が身についているからだ。徳のない人は徳を意識するため、なかなか身につかない。だから、最上の徳は無為であり、わざとらしいところがない。低級な徳は有為であり、わざとらしいところがある。」

老子はこう続きます。

「ところが最上の礼をわきまえている人ほど、相手がその礼に応えないと、 腕まくりしてでも、自分の礼に合わせようとする。なぜだろう。つまり、こうじゃないか。 無為自然の「道」が失われて、その後に“徳”が説かれ、“徳”が失われたあとに“仁”が説かれ、“仁”が失われたあとに“正義”が説かれ、“正義”が失われたあとに“礼儀”が説かれたのだ。だから、礼儀が説かれだしてからは無為自然の徳など、どこかにいってしまったのさ。なぜなら、礼儀というのは、人間のまごころが薄くなったからできたものであり、世の乱れのはじまりなのだ。仁義を形にする礼がはびこるのは、 見せかけだけのもので、「道」の本質を表したものじゃないんだよ。そんなものは「道」のあだ花であり、人間を愚劣にする始まりなんだ。なぜなら、立派な人間というのは、まごころの厚いほうにいて、 薄いほうにはいないものだよ。だから、もう一度、 形ばかりの礼とか知を捨てて、もとの「道」に戻るしかないのさ。」(老子)と。

ここまでくると徳の本体がはっきりとしてきます。

この「徳」とは、人間でいえば真心のことであり、思いやりのことであり、至誠のことを言うのです。この真心や至誠は決して単なる知識や学識を語るだけで実現するものではなく、真心の行動と実践によって実現するものです。

太陽の徳も月の徳も、水の徳も火の徳も、あらゆるすべての宇宙や自然には真心が存在します。その真心を発揮していくことこそが徳であり、私たちは真心で生きることではじめて本来の徳を積むことができます。

徳を積むことを頭で計算でできるはずはなく、徳を譲ることは我欲など入ればできるはずありません。ただただ一心に真心を澄ませ、思いやりのままに行動し実践することで徳は積まれていくものなのです。誰かのためにや、大切な人たちに自分の保身を入れず誠心誠意尽力していくことで顕現してくるものなのです。この徳を極めはじめて次第に万物自他一体善の境地を体得することができるように思います。

だからこそ徳を悟るには、この真心の実践の場数を積み重ね自分自身が仁徳を身に着けていくしかありません。この道には決して終わりがなく、今も生死を超えて永遠に存在し続けるているのです。

学問は本当は何のためにあるのか、それはこの徳を積み、心を磨き、魂を澄ませ無為自然に徳そのものに近づくためにある唯一の道なのです。人間が人間であるために、自然の中の一部として偉大なる与えられたいのちを活かすために古から今に至るまで本物の学問は須く「道」を説くのです。

引き続き子どもたちのためにも、徳を積む大切さ、徳の経営を実践していきたいと思います。

 

 

心と器

「ゆるし」をテーマにして取り組んでいると、そのゆるすことの難しさに驚くばかりです。このゆるしというものは、今の自分を丸ごとゆるすことですがそのためには自分の過去の傷を癒したり、自分の視野を広げたり、自分の体験した歴史を認めたり、あらゆる自分自分の今と向き合いそれを許容できなければなりません。

実際に許容するというのは、言い換えれば器を大きくしていくことであり自分自身のゆるしの器が大きくなればなるほどにゆるしの許容量もまた大きくなります。しかしこの器を大きくするというのは、自分をゆるすことができること、そして他人をゆるすことができることに比例します。自他をゆるすことは、自分自身の器を育てていくことでありこれは一朝一夕ではできないことです。

人は自分自身の器を見るとき、そこに自分の本性や本体を心に映し見ます。この時、器の周りの境界線には縁というか壁ができます。その壁がプライドであったり、トラウマであったり、恐怖心であったり、先入観であったりと、自分の器がここまでと決めているものが壁になります。その壁を壊されることもあれば、その壁を融かすこともあり、もしくはその壁によって自分を守ることもあれば、誰かを守ることもある、つまりは自分の心を載せている器が自分自身の心を支えているのです。

人は心が大きくなっていくと、それを載せる器もまた大きくなっていきます。例えば心が大きくなるのに器が小さければ器の壁が邪魔をして心がその器よりも外に出ることができません。その器は心の成長を抑制し、心の壁を厚く大きくしていきます。その器とは自分の価値観のことであり、自分の価値観を変えていかなければ心のままに自分をゆるし生きていくことが難しくなるのです。その価値観の壁は、例えばありのままを受け入れられなかったり、執着にこだわったり、他人からの評価が気になったり、誰かのせいにしたり、等々とプライドの壁として頑固に強くなるばかりです。

その心と器の関係を良好にしていくことで視野が広がり、許容量もまた増えていくように思います。人は心の成長に伴い、必ずこの器の成長があります。器を大きく豊かにしていくためにも、ゆるしの実践は欠かせないものです。

ゆるすためには、今のありのままの自分をあるがままに丸ごと認めることです。自分のことを自分が受容する、もっと簡単に言えば今の自分がもっとも今の自分に相応しいとそのままの自分でいいと自分自身が受け容れることです。そしてそのためには積極思考というかプラス思考というか、物事を前向きに捉えるということを大前提にしていなければ心は器と調和することはできません。

ゆるしとは、つまり前向きな心器を持てることでありすべてのことを全肯定する幸福の道の理なのです。これはまさに自然界に生きる生き物たちが安心してこの世でいのちを全うしている信の境地のことです。今の人間の社會は安心から遠ざかって孤独と孤立の雰囲気に心を病む人が増えています。

安心して子どもたちが生きていけるように、ゆるしを通してあるがままの自分で自由に幸福になり社會を仕合せにしていけるようにまずは自分たちから生き方を改め見直し、心器を豊かにしていきたいと思います。

自己確立の道~自立道~

自立というものを深めていくと、そのうちに自己確立ということに出会います。自分のことを一番知っているようでもっとも分からないのが自分ということでしょう。ではどこまで行けば自立なのか、何を自立なのかということになります。実際は、自立は終わりがなくいのちの成長と同じで死ぬまで、いや、魂が続く限り成長し続けることが自立なのかもしれません。

トルストイの遺した言葉に「真の文明人は、人生における自己の使命を知っている人間のことである。」というものもあります。自分とは何か、自分というもののままに生きているかということが今を生きることであり、今に生きているからこそ本心や本当の自己というものを確立していくことができるように思います。

そして自我というものがあります。この自我が自分だと思い込んでしまうと依存が強くなり、自分というものを見失っていくように思います。如何に自我をそぎ落とし、自我を省き、自己を日々に見つめていくかが人生の意味であり体験の妙であるように思います。

一つ一つの体験を真摯に内省し、その内省したことの中から自己を如何に確立していくか。このブログも同様に、それぞれが一人ひとりがみんなで自己を確立していくことこそが真の平和や生きる仕合せに繋がっていくように思います。

自分らしく生きていくというのは、自立していくということです。自立していくということは、自分の心を片時も見失わないということです。私はそれを初心とも呼びます。初心を忘れないで生きていくことが、自分を確立していくことであり確固たる自己に目覚め自分の答えのままに自分を生き切っていくことになるように思います。

しかし初心ほど不安定なものはありません、日々に流され人の評価を気にし、何かに依存して自己を卑下したり比較したりするなかで生きていればすぐに初心を見失い同時に自分も見失います。自分を見失わないで自分を遣り切っていくというのは、天を相手にして自らに問うことの連続です。自分はどうかと自問自答、自学自悟することができるのならそれは自立への道に入って人生の醍醐味を味わっているということです。

人生の醍醐味は魂の昇華であり、本当の自分に目覚め自分になるいのちの開花です。子どもたちが自分らしく自分のいのちを全うしていけるように、真の教育や保育とは何かを自分自身が見失わないように自己確立の道を精進していきたいと思います。

歴史の肌感覚

歴史の史跡を自分の足で辿っているとそこに歴史の重みを感じるものです。単に教科書や本を読んでも、その歴史の重みは分からず、その場所に立ち、過去に思いを馳せて感じていると次第にその時を肌で感じるのです。

この肌で感じるというのは、その場所や空間を体験するということです。空間というものは、時を超えてその場に止まるものです。例えば、その場で過去に何があったのかという伝承を口伝で聴き、その場所に留まり佇んでいると次第のその時の情景が目に映ります。

その場の空気は空間に宿っており、何があったのかを直観し感覚で理解していくのです。これらの能力は、人間には備わっており、私たちは文字を発明し言葉を使う前から、肌感覚で理解するという仕組みが体に染みついているのです。

以前、北海道のアイヌの長老の方にお話をお聴きすると、アイヌは歴史を口伝で理解し、100年くらい前のことはスラスラと思い出すということを聞いたことがあります。

これもまた記憶の仕方の違いであり、肌感覚で理解する人は鮮明に過去のある時をいつまでも覚えておりそれをそのままに伝承することができたのです。現在では教科書で歴史を教え、現地に行かなくても知っているかのように知識の応酬をしてはわかった気になっていることも多いのですが本来は現地に足を運び肌感覚で理解していくのが生きた歴史の認識なのでしょう。

子どもたちが、頭で知識で歴史を理解し大切なことを見落とし重要なことまで風化させていかないように自分自身が歴史に対する認識を改め、肌感覚で歴史を伝承していきたいと思います。

徳の兆し

人は知らず知らずに大きな恩恵をご先祖様からいただいているものです、それを「徳」とも言います。中国の易経の中に、「積善の家に必ず余慶あり」という言葉があります。これは善行を積み重ねた家はその報いとして子孫に必ず幸福がおとずれるという意味です。今の自分が仕合せなのは、先祖が長い時間をかけてじっくりと徳を積み重ねてきた余分を頂いているから幸福を味わうことができるということです。

これは自然界も同じで、私たちは自然の徳恵の利子をいただいてそれで暮らしていくことができます。この大自然から、私たちが食べたり生活したりする分を少し分けていただき安心して末永く暮らしていけるのです。もしもそれがなくなればすべての動植物たちは子孫を残すことができず、生きていくことはできません。先に生きた自分の先祖が真摯に自分の生を全うし譲ってくれたから自然の調和は永続してきたのです。

この逆に、「積不善の家に余殃(よおう)あり。」という言葉があります。 逆に、悪行を積み重ねた家には、子孫までおよぶ災いがあるという意味です。これを自然でいえば自然の利子で暮らすのではなく、資源をすべて後の人のことを考えずに自分たちで使い切るという生き方です。子孫には何も残らず、残るのは禍根のみです。

この徳を積み、徳を譲るということがどういうことか。

つまりは「足るを知る」心を持ってこそ、その徳を実感することができるように思います。そしてそれは感謝の心と一緒一体にあるものです。感謝のままに歩んでいけば、その行路のあちこちで徳恵に出会います。

それは例えば、思ってもいない人に助けられたり、有難い機会やご縁に恵まれたり、奇跡のような体験を味わえたり、その徳の兆しに巡り会うものです。その時こそ、自然に手を合わせたくなるものです。善いことを積んでいくというのは、いただいている分に感謝してそれを有難く使い、余分を次の方へと譲っていくものです。

本来、むかしの日本の先祖たちはみんなそのような暮らしをしてきました。その御蔭様で、今の私たちは世界でももっとも裕福な暮らしをすることができています。しかしそれを自分たちの代だけで使い切ってしまえば、子孫たちはその分、そのツケが巡り不仕合せな現実を与えられてしまうものです。

自分さえよければいいという刹那的な生活ではなく、自然に沿って自然の利子を大切に分度を保ち生きていく暮らしを自分のためにと実践していくことがその徳を譲っていくことになるように思います。

徳がすべての根本であることを自他ともに理解できるよう、御蔭様を観続けていきたいと思います。

祈りは実践

奈良県桜井市初瀬には長谷寺には朝の勤行として祈りの回廊というものがあります。1000年以上毎朝欠かさずに勤行をし十一面観音像に祈りを奉げておられますが、この日々の祈りということの偉大な価値を感じます。

この日々の祈りというものは、日々の修行とも言えます。一日を一生として、やったりやらなかったりするものではありません。この勤行も前の日にし忘れたからと、二日分を取り返すことなどはできませんしする必要もありません。後から足していくものではなく、その日に磨くものですから引いていくものです。日々に磨かなければ引くことはできません。

この祈りというのは、日々に欠かさずに行うものです。それは心がいつも初心に帰り、初心のままに祈り続けることが本当の価値であるからです。祈りの力というものは、言い換えれば信じる力のことで信仰心とも言えます。

このブログもそうですが、やったりやらなかったりしたことはありません。毎朝必ず、同じように祈るように書いていくことが本当の意味です。誰かに読んでもらったり、ただ欠かさずに続けることのためにやっているわけではありません。

日々に自分の心に問い、自分の心から願うことを祈り続けるための一つの実践をして書いています。

何のためにやるのかということを理解するには、その人がなんのために実践するのかを悟る必要があります。悟るためには、その人がやっているように日々に愚直に続けながら深めていく必要があります。

特に祈りや信仰心などの大慈大悲の真心は、一朝一夕ではなく文字通り命懸けの死ぬまで続けていく精進のことです。いろいろな人がいますが、果たしてどれだけ祈りとして実践を位置付けているのか。ここに天地の開きが出てくるように思います。

この長谷寺の朝の勤行の祈りのまた、信仰心という祈りの力によって人々の苦しみを取り払いたいという真心の実践でもあるように思います。

引き続き、子ども第一義が単なるお題目にならないように真摯に祈りを続けていきたいと思います。