精進の本質

人格が高まるというのは、相反するものが中和し調和されるということでもあります。例えば、信念が強く頑固であるけれども人の話をよく聴く謙虚な人、または燃えるような情熱的な行動力を持ちつつも冷静でクールに物事を判断ができる人、というような相反するものを同時に持つといった具合です。他にもせっかちだけども焦らないや、慎重だけれど大胆にというように相反するものを如何に調和されているかで人物が練りあがっているかが観えてきます。

これは古来より陰陽調和や中庸というように、人間も同じく如何に全体の中で自分を保つことができているか、言い換えるのなら如何に自己中心的ではないかということが大事にされてきたとも言えます。

自己中心的で自我が強い人は、つい自分ばかりを心配し自分が正しいと思い込み次第にごう慢になってきます。そのうち謙虚さがなくなり、自分の間違いに気づかなくなることで失敗して痛い思いをします。それを何度も繰り返して反省しているうちに、自分のごう慢なパターンが観えてきます。それを早めに察知して修正することで次第にその人は調和がとれてくるのです。

人間は内省をすることで、自分の至らなさに気づきます。もしくはその内省によって何を努力して精進していけばいいかに気づきます。それを着々と場数を経て修養していくことで次第に人格が磨かれていくのです。

人格形成は環境によって出来上がるものもありますが、しかし環境のせいにしても仕方がなく、自ら環境に働きかけるというように主体的に自分の人格形成に責任を持つ必要もあります。実際に人間はどんな環境の中でも運命を嘆かずに自分を高めるために努力している人は大勢います。本来は環境に左右されずに自分自身を練り上げていくことが自己修養の要諦であろうと思います。

自己修養の要諦は自利よりも利他、つまり日々を自分の保身ばかりに終始する一日を過ごすのをやめ、他人のためにお役立ちできた一日だったか、思いやりに生き切った一日だったか、大切な理念を優先した一日であったかと振り返る中で利他に自分を位置づけていくことが大事だと私は思います。

利他が徳を積むからいいと当たり前のことを言っているのではなく、常に利他にしていた方が自己中心や自我、エゴに持っていかれにくくなり悩み苦しみが少なくなるからということです。執着を自分に持つ人は総じてごう慢になっていきます。自分の人生が誰かのお役に立っているのだからと真摯に自分と正対する人は、自ずから中庸に近づきます。その自己中心、自我、エゴを転じて善いものにするのが精進の本質だと私は思います。

引き続き、子どもたちに生き方を譲っていけるように精進の本質を大切に守り育てていきたいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。

 

視野を高める

松下幸之助さんの言葉で「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。」とあります。これは以前のブログでも書きましたが、視野が狭いというのは物事の見方が自分の視界でしか見えていないということもでもあります。先入観や思い込み、他人の話に耳を傾けず自分の価値観の正否のみで物事を解釈する傾向が強いということになります。

例えば、どう考えても全体が観えたり多面的に客観的に長期的に観ている人から見ればとても可笑しなことをしていると観えていても本人は気づかないものです。自分の中で行き来するだけで他人に意見を求めなくなると人は自分の中で出てくる正解がすべてだと妄信するものです。

他人の評価を気にする人ほど心を閉ざし、心を開かないから人の話を素直に聴くことができません。周りから自分がどう思われるかばかりを気にしていて周りに合わせて自分の本心がバレないようにと保身をしている人は視野が狭くなっていきます。

視野の狭さの理由として、自分がどう思われたいかという自分の理想像の価値観を周囲に押し付けようとしたり、もしくは自分がこうありたいと思っている姿で見られたいという自分の願望もまた視野の狭さの原因になっています。

自分の価値観の基準か、他人の評価の基準を気にして自分の心と向き合わないで生きていくとそのうち自分の心のことが分からなくなります。これもまた視野の狭さとも言えます。自分がどうしたいかがわからないのは、いつまでも他人を基準にして生きていくことが沁み付いているからです。これは過去の歪んだ個人主義の影響を受けていることも一因になっています。つまり、自立の定義が自分ひとりでなんでもできることだと思い込んでいるからです。そして自分ひとりでできるというのは、これもまた周りの評価を気にする原因にもなります。

そして周りからどう思われるかを過度に意識すると自分らしくいることができません。日ごろそうやって我慢をしていて突然思い切って本心を明かすと周りが過剰に反応して余計な問題が起きてしまいます。だからまた心を閉ざして隠すという悪循環を繰り返してしまうようにも思います。

それを好いことに転じるには、一つは自覚すること。もう一つは、協力することのように思います。自覚は、自分で自分を理解すると自分の特徴が素直に理解できていきます。あるがままの自分が認められると、無理を押し通すことも少なくなっていくからです。そして人間社會は決して一人で生きていくわけではないのだから協力すればその中で自分の持ち味を発見しそれを仲間の中で発揮することにもなったりするからです。

視野の狭さは転じれば天才的集中力であり、視野の寛さは天才的調整力になります。一人では完結できないのが人間ですから、自分にしかできないことを発見し、自分のあるがままでもみんなの力になれるように助け合い思いやることで視野を高めていくことができます。

視野を高めるにはまず自立の定義を換えてしまわなければなりません。自立とは一人でできることではなく、本来の自立とは周囲の人たちに感謝し御蔭様の心で常に助け合いいつも思いやることができることであるということに意識を換えるのです。

視野を高めるというのは、自他を認めそのままあるがままがいいとそのものの価値を丸ごと認識することです。そのまま活かそうとするところに人間の叡智があるように思います。

刷り込みで苦しんでいる大人たちが多いからこそ、子どもたちのためにも自らの視野を高めていきたいと思います。

本当の失敗とは何か

人は失敗をすることで成長していきます。成功か失敗かの二元論で育ってきてしまうと極度に失敗しないでいよう、優等生であろうとするものです。特に失敗をキャリアに傷がついたと思っている人は、結局は何もしようとはしなかった人ということになります。

失敗の御蔭で人は自分の間違いに気づけます。本来は失敗か成功かではなく、その後の方が大切だということです。ある人は失敗してもそこから学び、それを糧に次の挑戦に活かす人がいます。またある人は成功してもそこに奢らずに謙虚に成功が失敗ではなかったかと自分を戒め一つ一つを大切に積み上げていく人もいます。

また反対に、失敗をしなかったり、成功したらそれっきりになったり、それが本当の意味の失敗であることには気づかずにいつまでも変わらない人もいます。変化というものは、学び続ける姿勢であることでありそれは失敗か成功かに一喜一憂するようなことではないのです。

新しいことに挑戦するのは確かに不安ですし時折怪我をするものです。しかし何度か繰り返しているうちに「コツ」が次第に掴めてくるものです。それと同時に、自分の何が間違ったのかという自分自身にある癖に気づけるのです。例えば、事前準備をいい加減に済ませてあとからそれを修正するのに時間がかかる癖があるとか、集中力が途切れるとすぐに雑になってしまう癖とか、失敗を通して自分の至らなさに気づけるものです。また同時に失敗から立ち上がることで、自分の中にある信念や奥行きに気づき、自分にはこんなに諦めない癖があったのかと感心したりもします。

つまり人間はみんな、この失敗と成功の体験を通して学ぶのです。学ばないことがもっとも勿体ないことであり、それは失敗も成功もせずに無難に何もしないでいることのようにも思います。

考えて何もしないよりは、実行してみて考える方が学びが深くなりますしその方がワクワクドキドキと心が動き続けます。この逆にある格言に「失敗する人には二種類ある。考えたけれども実践しなかった人と、実践したけど考えなかった人だ」とあります。どちらも失敗なのは、学ばなかったということでしょう。

失敗は何か大きな出来事によって決まるのではなく、日々を学ぼうとしないことによってすり寄ってくるように思います。学ばない日はすでに失敗だとしたら、何もしない何も考えない日こそ失敗であったとも言えます。

成功や失敗の二元論ではない成功とは、日々に学び続ける積極的人生を送るということです。それは失敗を恐れずに挑戦するということです。そして挑戦とは失敗した後にやってくるものですから挑戦し続けるというのは失敗し続けるということです。

最後に本田宗一郎の言葉です。

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そして、その実を結んだ1%の成功が現在の私である。私の現在が成功というのなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。私の仕事は失敗の連続であった。」

「失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。」

失敗の中に真の価値があると、この失敗しないことを畏れようとする心が人を積極的に甦らせ活きらせるように私は思います。子どもたちのためにも失敗から学ぶ姿を示していきたいと思います。

奥深さの感性

先日、ミマモリストのブログに「物事の深さ」に気づくことで未熟さが分かったとありました。人間が今に変化をし続けていくことは、この奥深さを知り続けるのようにも私は思います。

この奥深さについて少し深めてみようと思います。

「奥深い」を辞書でひくと「表から遠い。また、ずっと奥まで続いている。」「意味が深い。簡単には究めがたい。」とあります。言い換えるのなら、分かることがない世界とも言えます。知識では知りようがない場所、到底辿り着けようのない次元のようなものです。例えるのなら宇宙の果てのようなところが奥深いところというのでしょう。

この奥深さは知れば知るほどに自分の未熟さが分かります。この時の未熟さとは、自分が知らなかったことを知り、分かった気になっていたことが分かり、如何に自分は知った気になっていただけだったのかを自覚するのです。それにもう一つは、自然の畏敬を感じるかのように如何に自分がちっぽけな存在であったかということに気づくのです。奥深さに気づけるというのは、謙虚で素直な状態であるということでもあります。

また先に知っていれば不安も恐怖もないのでしょうが、知れば知るほどに好奇心の方は働かなくなってきます。不思議を思ったり、未知を感じようと思う感性は奥深さに近づきたいと思うところから出てくるものです。

学問の醍醐味もまたそこにあり、人は出来事や体験したことを振り返り内省することでその味わったことのない新しい価値に気づき、学び直すことができるように思います。

知りえない、分からないからこそそこに奥深さがある。奥深さとは感性なのです。そして人生の奥行きが深くなるのは、「その体験をどのように感じことができるようになったか」ということだと私は思います。

福に転じるチカラというのは、この奥深さのことを指します。

どんな出来事や物事であっても、それをどのように感じてどのように捉えるかはその奥深さの感性の中にあるものです。私たちの会社の戒訓の一つ、「分かった気にならない」は道を歩むものとしての大切な徳目です。

引き続き、子どもたちの歩んでくる道が未知の面白さ、好奇心に溢れる楽園になるように奥深さの感性を磨き上げていきたいと思います。

 

 

暗闇の色

先日、古民家甦生を実践する聴福庵の板を渋墨で仕上げていきました。この渋墨とは、柿渋(渋柿の未熟な果実を粉砕し圧搾して得られた汁液を発酵、熟成させたもの)と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたものです。古来からある伝統技術であり、防虫・防腐効果のある天然塗料として家屋のあらゆるところに使われてきたものです。

今は耐久性や作業性の良いペンキやラッカーなどの油性・化学塗料の普及で渋墨はほぼ消滅しているといいます。

この渋墨の上品な黒色は、化学合成のオイルステインで出てくる黒ではないことは一目瞭然でわかります。古民家甦生を通して暮らしも復古創新している最中ですが私が取り組んでいる炭とこの渋墨の相性はとてもよくあらゆる場所で重宝しています。

そもそも隙間の多い日本家屋は、外界の自然と離れずに一体につながったまま存在している家屋ですから防虫はとても重要です。さらに高温多湿で常に水気が多い部屋ですから防腐もまた重要です。

伝統の智慧は風土の影響を受けて発達しますからこの渋墨は日本の気候風土そのものが産んだ最高の技術の一つです。

柿渋は以前のブログで書きましたが、この渋墨はその柿渋に松煙といった煤を混ざるという発想。これは暮らしから出てきたのではないかと私は思うのです。囲炉裏で松を燃やせば煤が出ますが、その煤が壁につくと奥行のある深い黒が出てきます。そして煤がつけば虫が来ないというのを先祖は経験から知っていたのでしょう。それに発酵する清酒を入れることで、塗料として合成する。よくできた仕組みを感じながら塗るたびに出てくる色の深さにうっとりしてきます。

松煙の色は、炭の持つ色にとても似ています。

私はこの炭の色がとても好きで、夜の深い闇の色を観ているようで穏やかな気持ちになってきます。闇が失われてきた時代、どこでも電気が明々とつき都会は暗くなる時がありません。まるで闇を遠ざけているかのような現代です。

しかしこの闇は、心の時間を与えてくれるものであり休む時間を持たせてくれるものです。この闇の時間があるからこそ、いのちのエネルギーは甦生します。私が炭やこの闇の色にこだわるのはこの古民家が子どもたちの心を癒すように願うからです。

引き続き、渋墨を用いて深い奥行のある墨の色、暗闇を創出していきたいと思います。

自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

自分らしさ

自分らしさという言葉があります。昨今はこの「自分らしく」という言葉をよく聞くようになりましたが、これは自分らしくいられない人が増えてきているということでもあります。

自分らしさとは何かということを少し深めてみようと思います。

そもそも自分らしさというのは、自然体の自分ということです。自分らしくいることを無理しない、つまり自分のままでいいという状態です。それは誰の評価や結果、期待や比較などで自分を作り上げようと無理し頑張ろうとしないということです。

現在は、無理をしてでも頑張っても自分の与えられた役割を果たそうとする人が増えています。本来の自分ではやらないようなことでも誰かから与えられた役割や立場を守るために頑張ろうとするのです。その役目がピタリと合う人はいいのでしょうが、実際は能力主義や結果主義、個人主義が背景にありますから、何とかできなければ無理をして頑張って頑張れなくなったらもう無理だと倒れてしまいます。その段階においては楽しいや面白いといった好奇心も枯渇していることもほとんどです。そして自分らしくいられないと別の自分らしくいられるところを求めてはさ迷うのです。

実際は自分には無理なことがあることを自覚し、無理なことを頑張ろうではなく得意なところを活かして苦手なところは周りに頼るというのが自分らしくいられるということです。認め合い、プロセスを大切にし、助け合い協力することが背景になっているところは安心して自然体でいられます。できるところをやればいい、無理をしなくてもいいという安心感はいつでも仲間が見守ってくれているという安心感に包まれます。

このように自分らしくというのは決して自分だけでできるものではなく、その周囲の環境や仲間の存在によって感じられるものということになります。信頼し合う関係は、認め合うことからはじまります。当然周囲にその環境があっても、自分のことを認めず他人のことも一切認めようとしない人は自分らしくいられなくなります。

自分らしくいるために、如何に自分から周囲を認め、周囲もその人を認めるか。その人らしさとはその人を丸ごと認めていくということです。

私たちが目指している人間社會は誰かだけが誰かによってつくられ、本来の自分になれず無理をして一人だけ苦しむようなものではありません。これまでもみんなで一緒に生きてきたのが人類の叡智だからこそ、感謝のままにみんなが一緒に楽しく仕合せに暮らせるように一人一人を尊重し思いやることが自分らしさであることを実践で示していく必要があると思います。

多様な異なりがあっても、認め合っていけばそこには自分らしくいられる人たちの個性が活きていきます。好奇心もまたそういうところで発揮されていきます。これだけの個性がある人間が増えていくことは、それだけ助け合える機会が増えていくとうことです。

人口80億人の時代が来ていますが、これだけの個性が増えたことが仕合せに思います。この人類が協力し合い生きていく社會を夢見て、今日も理念研修に臨みたいと思います。

心の豊かさ

古民家甦生を通じて古いものを修繕していると誰もがその光景をみて「懐かしい」と感じます。その懐かしいと感じるものは何か、それは心の豊かさです。懐かしさとは人の心の中にあります。

今の時代は、過剰な貨幣経済が発達しお金の方が物よりも溢れかえっています。都会にいけば手に入らないものはほとんどありません。家電製品であったり生活用品であっても簡単に購入できます。

しかしちょっとしか使われずもっといいものがあれば購入して古いものは廃棄されます。本来、昔の先祖たちはものを大事に最後まで使い切りました。それを見立てるとも言います。

私が尊敬している鞍馬寺の貫主様も、壊れた茶碗を花瓶に見立ててお花を活けていました。こうやって使えなくなったものを別の形にして活かそうとする。その心の豊かさは私たち先祖たちがずっと大切にしてきた心です。

この心を知る時、私たちは豊かさとは何かの本質に出会えるのです。

心の豊かな人とは、もったいないそのいのちを使い切る人です。同様にもったいないその一期一会のご縁を活かす人です。

二度とないものをもっと大切に使い切ろうとする心は別にゴミを捨てないとか、節約しようとすればいいのではありません。今までお役にたってきたいのちを慈しみ愛おしむ心、いのちが宿っているものへの思いやりと感謝、それは自分がこの世で暮らしていける仕合せを味わっている人生の豊かさです。

心の豊かな人は、その存在が懐かしく感じます。こうやって先祖の心に触れて生きていけることは何もない中でも無尽蔵にある宝に出会っているようです。

子どもたちにも心の豊かさを譲っていけるように古民家甦生を楽しんで歩んでいきたいと思います。

商人とは

今では商人とは何かということが曖昧になり、いわゆる商売をする人たちをみんな一括りに商人と呼びますがかつての商人とはどのようなものだったか近江商人の家訓や心得から深めてみようと思います。

近江商人は、鎌倉時代から昭和にかけて活躍した滋賀出身の商人集団のことを指しました。この商人の理念には「三方よし」という思想があります。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」というものです。

この三方よしの考え方は現在の日本的経営の一つにも例えられ、如何に世間の皆様によって最も善いことになるかを常に考え行動することが商人であると理念を定めています。また「利勤於真」(利ハ勤ルニ於イテ真ナリ)という実践徳目もあり、これは商人の利益はその任務に懸命に努力したことに対するおこぼれに過ぎないとし、勤労を優先し利益はその結果として出てきたものに過ぎないと真心を優先することを大事にしました。

近江商人には、商売十訓というものがあります。ここには近江商人の生き方の事例が紹介されています。

・商売は世のため、人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり
・店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何
・売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる
・資金の少なきを憂うなかれ、信用の足らざるを憂うべし
・無理に売るな、客の好むものも売るな、客のためになるものを売れ
・良きものを売るは善なり、良き品を広告して多く売ることはさらに善なり
・紙一枚でも景品はお客を喜ばせばる
・つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ
・正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ
・今日の損益を常に考えよ、今日の損益を明らかにしないでは、寝につかぬ習慣にせよ
・商売には好況、不況はない、いずれにしても儲けねばならぬ

ここに商人とはどういう生き方をすべきか、そして商人の志すものは何かが記されているように思います。特に近江商人は「陰徳善事」というものも掲げ、人知れず見返りを求めずに徳を積むことを重要視したといいます。

今ではすぐに職業や肩書、人気や流行から評価して人を観ますが、本来はその生き方をする人が何の職業をやっているかとその「人物の生き方」を観ることが本来の働き方の確認なのです。つまり古来の日本的精神、士魂を持った人が商才を使っただけでその風土の日本人の生き方がどうだったかということです。

世の中では働き方の改革と言われますが、その前に自分の生き方がどうなっているのかを見つめることが必要だと思います。単に会社の制度や取り組みを換えればいいのではなく、その根幹にある生き方を同時に換えることが働き方改革の本質だと私は思います。

商人として自分の生まれ落ちた天命の中で、しっかりと日本の心を持って働くということが商いを通して社會を善くしていくということです。その働き方は、常に自他も善く、そして世間も善く、それを喜びにして生きていくということです。

世の中の平和平安の祈りに生きたその生き方、働き方こそ商人の基本なのでしょう。日本の商人の道に私は誇りを思います。

引き続き社業を見つめながら日本的経営を学び直していきたいと思います。