今ここ、すぐやる

物事をやるときにすぐやる人と先延ばしにする人がいます。少し前の流行語に「いつやるか、今でしょ!」がありましたが、今やる人は常に主体的であり後でという人は受け身になっていることがほとんどです。

この理由は簡単で、期限が迫ればその期限の圧力や惰性の力で物事をなんとかしようとするのは「しなければならない」という外圧を用います。例えば宿題などもそうですが、期限があるからやらなければならないからやっているのでありそれを何度も何度も繰り返していく中でそうやってやることが癖になってしまっているからです。

本来、宿題などではなく自分から進んで学びたいと思っている人は期限がありません。いろいろなことを深めていきながら、その事物に没頭していきます。この没頭するというのが今のことで、今没頭しているのだから後にするという発想はありません。もしも後にしたとしても、それは先延ばしではなく没頭しながら後にするので「今」から離れたわけではありません。

これはどんな仕事もそうですが如何に意義を持たせて面白くやっていくか、面白くないことでも如何に面白く取り組むかが、「創意と工夫」です。創意と工夫をする理由は、好奇心をもって主体的に自分が取り組めるようにするためでそれを維持することでマンネリ化を防止しているのです。

そもそもどんなこともそれをやる理由は何かと思うとき、それは単にやること自体が目的ではなかったはずです。そう考えてみると、ただ真面目に頑張ればいいのではなくもっと楽しく面白く豊かにやる工夫は自分自身ができるはずです。余裕がないからそうなったのではなく、余裕を創造していないからそうなっていくのです。

忙しさというのは、創意工夫で忙しくなくなるものです。それは自分が初心を忘れずに心を籠めていくことを大事にしたり、せっかくだからと一石二鳥のようにこちらで学んだことをあちらで活かし、自分が起きたことを誰かの役に立てたりと発想を転換していくことで忙しさは感謝に換ります。

一見つながっていないように観えますが、この感謝があるかどうかが「やっているのとさせていただいている」との大きな違いになります。させていただいていると思っている人は無駄なことは一つもないことを知っており、その機会に感謝し、天からの声やお客様からの声、周囲からの声を真摯に聴き、それを楽観的に福に転じていきます。いわば素直で謙虚な人です。聴いて福にする人というのは、常に素直に謙虚に物事の声を聴き自分に矢印を向けて反省を欠かさない実践を積んでいます。

思考の癖もまた刷り込みですからそれに気づいてそれを転換するためにもっと創意工夫や余裕を創造していくといいのかもしれません。またあれこれと考えて先延ばしするのではなく、今来ているものだけを丹精を籠めて取り組んでいくことで今に没頭していけるように思います。今、此処すぐに自分を使っていくことの繰り返しが真の余裕を持たせるように思います。引き続き、今できることに人事を盡していきたいと思います。

歓びの種

社会現象の一つとして、遣り甲斐や働き甲斐について語られることが少なくなっているように思います。これは生き甲斐のことであり、生きる歓び、働く歓び、遣る歓びを感じにくくなってきているということです。

まず働き甲斐というものは、決して楽ばかりを求めたり、効率や結果ばかりを望んでいても得られるものではありません。実際に働き甲斐は、苦労や非効率、プロセスの中に存在するものであり不便さや手間暇の中で感じるものです。

仕事をする際に自分自身がどういう考え方や姿勢で臨んでいるか、先ほどのように効率優先、要領よく、結果だけをみて早くスピーディなことばかりをやっていたら働き甲斐は失われていくのです。楽ばかりを求めていく社会の価値観に自分も流されれば、日々の仕事はつらいだけのものになります。苦労するのは、誰かの役に立つ歓びを同時に連れてくると感じるのなら、誰かのためになることと自分のためになることが仕事になるように努めていくことが好きな仕事にしていくコツかもしれません。

好きなことをやるというのは、単に自分の趣味をやるということではありません。自分が何のお役に立てるか、どういう天命を持っているか、自分の才能がどのようにみんなの役に立つか、自分にしかできないことで如何に世の中の力になっていくか、ここに生き甲斐と遣り甲斐があり好きなことに出会います。

大好きなことを仕事にする人はみんな、そういう自分が役に立っている歓びを知っている人たちであり、好きなことをして生計を立てることができる仕合せを享受しているとも言えます。

人間社会には、得るものと与えるものしかありません。自分たちが得ているものは誰かが働いてつくってくださったものをいただいて生活を営むことができています。同時に自分はそれをいただき、誰かに何かを与えることで生計を立てることができています。

与えられたもので生活をしているのだから、同時に与えられた場所と与えられた仕事に打ち込むことで自分も与える側の役割を果たすことができます。もしもそれが自分にしかできないことで、社会が必要としていると実感することができるのならばそれが働き甲斐になり、遣り甲斐、生きがいになるのです。

生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐を持つ人は自分の天命を愛しています。同時に仕事も愛しています。自分が心を籠めて取り組んだ質量が、その仕事の値打ちを高め自分の値打ちも上げていきます。どれだけ本気で自分の与えられた仕事に没頭できるか、ここに私は歓びの種があるように思えます。

どんな種を与えてもらったとしても、それを懸命に育てていく中に生き甲斐があります。子どもたちに全身全霊のすべてを与えて愛を育てるように、自分の仕事にも同じように全身全霊の愛をもってかかわっていきたいと思います。そしてそれこそが生き甲斐であり、遣り甲斐であり、働き甲斐なのです。

子どものためになり自分のためになる仕事は偉大な遣り甲斐を感じています。引き続き、いまここの使命に没頭しながら生きる歓びや仕合せ、仕事ができる有難さに感謝しながら取り組んでいきたいと思います。

文化とは何か

「文化」という言葉は明治時代に翻訳された言葉の一つです。英語、ラテン語ではこれをcultureと書き、意味は耕すや洗練、また私の意訳では素養や教養、たしなみや心得ともいいます。企業文化などで語られる文化は、その組織の価値観のことであり一つの目的や理念に対して洗練されて創造されたその企業らしさを企業文化と語られるのかもしれません。

そう考えてみると、この文化というものはそのものが磨かれ洗練され創造された一つのカタチであるともいえます。これは企業に限らず、個人でさえ文化を持っていることになります。よく美術や芸術、もしくは造形のすべてにいたるまで私たちが鑑賞しているものはそのものの「文化」のことであり、その人物が思想や精神、その全生命を真摯に注入して具現化させたものを文化として認識しているということでしょう。

文化というものを考えるとき、それを創っている担い手は何かということになります。結果が大事なのではなく、その洗練される過程こそが文化育成そのものであり、如何に磨き洗練させていくか、その洗練する過程の中で人々はその文化に共感し、その文化が明確に外に顕れ現実の世界の人々に伝えることができるに至るのです。

例えば、人間には素養というものがあります。その人らしい天真を、如何に掘り下げていくか、如何に耕していくか、人間を磨き上げて人格を高めていくか、そういうものが文化です。

その人物がどのような文化をもっているか、言い換えるのならその人物の理念がどのようなものであるか、その理念をみんなで磨きあげていく中ではじめてその理念は顕現して周囲を感化するに至るのです。

人格を養いそして修めると書いて「修養」とも言いますがまさに文化とはこの「修養」のことであり、その人物たちがどのように修養したかが文化の証明であると私は定義しています。

これから文化事業を始めるにあたり私はこの意味をもう一度、展開していくなかでご縁ある人々と語り合い磨き合いたいと思うのです。

歴史を省みるとどのような時代もその時代に全生命あらゆるものを懸けて生きた人々の修養の洗練があったからこそ文化が今でも光り輝き歴史遺産として遺っています。その文化を観照するとき、私はその時代の人々がそうであったように、今の時代であってもそう生きたいと願い祈るのです。

かつての先祖のようなものが今の時代では同じようできなくても、今の時代にしかできない洗練されたものが創造できるはずです。それを自らの内面に見出し、かつての先祖の生き方に恥じないように文化を耕し、自分自身を掘り下げ、無二の初心を子孫へと伝承していきたいと思います。

真実の花

世阿弥に「命には終あり。能には果あるべからず。」があります。これは人間の命には終わりがあっても、能を極めるのは果てがないということを言います。人間も同じく、人間の命には終わりがあっても人間を極めることには果てがありません。

そのことを示す漢字に「修身」があります。この修めるというのは、果てがないものを極め続けるということです。人間はすぐにわかった気になってわかることが悟ことのように思い違いしますが、それは知識の上で知っただけでそれが極めたことではないことは明白です。

極めるというのは、極め続けているという状態のことをいい、それはわからないものをわからないままに深め続けて改善を繰り返しているということです。

マンネリ化というものは、少し慣れたものをわかった気になりきっとこうだろうと思い込み磨くことをやめ、改善することを怠るときに発生するものです。分かることやできることなどの結果に重きを置くのではなく、そのものを極めていこうとするところに人間精進の鍵があるように思います。

世阿弥の遺した「風姿花伝」には、自分の花を咲かせることを極めると示されます。これを森信三氏は「一個の天真を宿している」といいます。それぞれに天から与えられている花を咲かそうとすれば、極め続けてその時々の花を咲かせて人生を全うしていかなければなりません。人生の命には終わりがあっても、まさに生き方や道には終わりがないということです。

世阿弥は、その時々の花を咲かせることをわかりやすく整理しています。これは自分の人生を省みて感じた一つの指標であったのかもしれません。そしていつか極め続けて真実の花を咲かすように説きます。そしてそれが「初心を忘るるべからず」に続きます。

この真実の花は、果てがありませんから常に分かった気にならずに学び直し続けて一生涯を懸命に傾け続けていく覚悟が要ります。分かることよりも、修めようとすること、極めようとすること、そこには初心を持ち続けて命果てるまで道を歩んでいこうとする根があります。

根から養分を吸い上げてまた土に帰るまで、人はその時々で真実の花を咲かせ続けていくために一所懸命になるのが人間そのものの至高の姿ではないかと感じます。引き続き、子どもたちにその時々の真実の花のままで接することができるように常に真心と脚下の実践に精進していきたいと思います。

近未来の創造

先日、ある小学校で子どもたちに将来の夢について就きたい職業を書きなさいという課題があることを知りました。そこには、それぞれに将来自分が就きたい職業を書いて提出するものになっていて、子どもたちは経営コンサルタントやサッカー選手、ミュージシャンなど色々と書かれていました。

先生の課題のねらいまでは確認しておらずよくわかりませんが、今の職業が将来残ってという可能性が低くなっているのは世界情勢からもわかります。

グーグルの創業者で現CEOのラリー・ペイジ氏がファイナンシャル・タイムのインタビューの中で、「20年後、あなたが望もうが、望むまいが現在の仕事のほとんどが機械によって代行される。」 といいました。さらに必ず起こると断言していることは、人工知能の急激な発達により、現在日常で行われている仕事のほどんどをロボットが行うというもので、近い将来、10人中9人は今とは違う仕事をしているだろうと言っていました。

オックスフォード大学の調査でも、20年後には約47%の職業が機械によって代行されなくなっていると予見しています。

現実として、人工知能が出てきたことは間違いなく知識を使った労働に対して大きな変革をもたらします。人間が今までやってきたことを、力の部分だけではなく知識の部分、さらには智慧と呼ばれた部分にまで人工知能やロボットが肩代わりしていくという事実は、世界を席巻していくのは間違いないことでしょう。この良し悪しを人類が時間をかけてじっくり語り合うこともゆるされず、技術の急激な進歩はもはや誰にも止められません。

人間はまだその現実に心が着いてきておらず、多くの人はこの問題を直視しようとしていないことが多いように思います。しかし近い将来、10人中9人が他の仕事をしているという事実は簡単に予想されますから、あるかどうかわからない職業を求めるよりも如何に今の自分が自分らしく新しい分野を創造していくかと考える方が価値があるように私は思います。これを逆手にとって考えれば、機械や人工知能にはできない人間らしい新しい仕事を9人が開拓したということでもあるからです。

人工知能が出現しているすぐそこにある近未来において、果たしてどんな新しい仕事を創造していくか、子どもたちはそれを自由闊達に語り合い学び合い、未来を豊かに切り拓いていく存在であります。

だからこそ自分の実体験と人生経験で振り返り大切だと感じるのは、柔軟性や楽観性、また五感を磨いたり、遊び心を蓄えたり、さらには自国の独自の文化や、先人からの智慧に触れ、生き方を素直に学んだりすることが人工知能にはできない人間の持ち味の発掘になるように私は思うのです。

今の大人は現実を直視できないこともあるかもしれませんが、子どもたちは次の時代を生きていく存在です。その存在たちを信じて見守れるように、今、私たちが何をなすべきか、心とよく正対し向き合う必要があると私は思います。

自分のことばかりを考えて疲弊するのではなく、もっと豊かに未来に何を譲り遺していきたいかを語り合いそのために今を大切に遣っていくことが未来の子どもたちを助けることになるように思います。

先祖たちが何代もあとの子孫たちのために木を植え続けたように、私も今の時代の木を植え続けていきたいと思います。

 

人生の鉱夫~着宝~

先日、人生の鉱夫のことを紹介しましたがなんでも掘っていくうちに発掘できる喜びに出会うものです。掘り下げていくことは、今まで観えなかった世界に出会う喜びであり、今まで知らなかった自分の心に出会う旅でもあります。遠くにいかなくても、今いるところを掘っていけばそこに自分の運命や天命、宿命があることに気づいていきます。

そしてそのすべてを受け容れ認めるとき、「ああ、そうだったのか」と自分自身の持って生まれた才能や自分の興味がある本質に気づき仕合せな気持ちになるのです。

掘り下げている最中は、ほとんどが泥や砂ばかりです。しかしいつの日か、宝石に出会えると信じて掘っているのならその掘り下げる最中は仕合せな時間でもあります。すぐに人は、掘っても何もないではないかと文句を言ったり、悲観的にこれだけ掘ってもでないではないかと結果主義を突き付けて早々に諦めたり他人を批評したりしますが「掘っている最中こそが本来の仕合せ」であり、いつか掘り当てるかもしれない自分にしかない宝石に出会えるかもしれないと「希望を持って歩んでいく人生」こそが「自分を磨き自分を宝石にしていく」のです。

ちょうど、聴福庵の前には炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門の旧邸宅があります。この伊藤伝右衛門は、皆が途中で掘るのを諦めてしまうような岩盤の大きなところを自ら選びそこを掘り下げていった人物です。あと少し掘ればいいところを、最後の壁にぶち当たってみんなやめてしまいます。しかしその最後の分厚い岩盤の中にこそ人生のロマンがあり、自分の人生全てを懸けてその岩盤を掘りぬくことで良質な石炭、黒ダイヤモンドに辿り着いて成功した人物だったのです。それを炭鉱夫の言葉で「着炭」といいますが、今の時代ならこれを「着宝」といってもいいかもしれません。

人間は、自分の才能や能力を誰かの役に立てようとします。しかし泥や砂、石ばかりがゴロゴロ転がっている暗闇を掘り進めることは本当に精神力がいることです。ほぼ宝などないと感じる最中かもしれません。しかしその最中こそが、自分を磨いて光らせていると信じていけば、必ず自分が光り輝く宝に変化していきます。

もしもそうなるのなら宝は出なくても、宝になっているはずです。

掘り下げていく人生というのは、自分を磨く人生のことです。このブログも、日々の実践もすべて掘り下げてはじめて自分を磨けます。意味を深めたりご縁を大切にしたり、出会う人の幸福や目の前の人の仕合せのために自分を使っていくことこそが磨かれて光るプロセスです。

引き続き、人生の鉱夫との出会いを通して現代の磨きの黒ダイヤモンドを掘り当ててみたいと思います。ご縁に感謝しながら、永遠の子どもたちのために精進していきたいと思います。

 

人生という鉱山~物語を仕立てる~

人生の中ではいろいろな出来事が起こります。それは予想のつくものもあれば、まったく予想外であることもあります。それは日常と非日常の異なりと同じく、予想がつくのが日常で予想外が非日常です。その両輪を行き来しながら人は一度しかない自分の人生の物語を自分で創造していくものです。

かつて文化庁長官を務めた河合隼雄さんは、心の専門家としてとても素晴らしい言葉をたくさん遺されています。私もこうやって日々に心に正対してブログを書いていますが、共感するものが多く、不思議なご縁を感じております。その河合隼雄さんの言葉で、

「物語の『主人公』は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。」

「『せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか』という生き方の方が幸せなんです。」

があります。

人生はどうなっていくのかと不安がる前に、大切なのはこの自分の物語をどのように創造していこうかとしていくことこそが豊かな生き方であるということです。よく幼少期から周りの大人や学校で夢や目標を設定され、それに向かっていくように教えられます。しかしそうするとそうならなかったら不幸、叶わないことがよくないことのように勘違いしてしまうものです。

それよりも、どんな出来事があったにせよどのような物語にしようかと自分の人生を自分なりに物語にして楽しく豊かに語っていければそれはもう仕合せといっていいものです。この仕立てる仕合せというものは、自分なりに生きていいということあり、まるで一反の反物を自由に誰とも比較せずに織っていいんだよという天の声のようです。

比較競争し目標管理をすることが社会の通念になっている中で、如何に自分らしく自由に生きていくかはこの「物語」を仕上げていくという心持に由ります。

今日はどんな物語がある一日にしようかとワクワクドキドキし、一日の終わりにはどんなことがあった一日だったかと内省しご縁と仕合せに充実していく。こういう繰り返しによって人生の物語は彩られ、主人公としての自分に磨きがかかってくるのです。

昨日は、石炭のボタに文字を彫りこんで磨いて石と対話し歴史を感じ心が感動して泣いている人を観ました。その人は夜には私たちは炭鉱夫のようなものだとも言いました。人生の物語を主人公として生きていく人は、どんな出来事もご縁も出会いもすべてドラマチックにしロマンチックにしていきます。同じ人生であっても、心持一つでそれは変化していきますから純粋無垢な心をどのように仕立てていくかも自分次第です。

最後に河合隼雄氏の言葉です。

『人間というものは自分で自分を知らない鉱山のようなもの。自分を生きるということを考え始めると、「こんなこともできるんじゃないか、これもやれるんじゃないか」――と自分を発見することができます。』

これもできるこれもやれる、なんでもできるじゃないかと思うところに夢はあります。夢に向かって挑戦していきたいと思います。

おくどさん

昨日は、おくどさんの竈を左官と仲間と一緒に手作りでつくりました。約500キロ以上の土を運んで、鏝で叩いて固めながら成形していくのは子どもの粘土遊びのようで夢中になってやりました。

この土は、自然農で7年間共にした田んぼの土を用いそこに淡路の土や石灰、井戸掘りで出てきた粘土などを混ぜて作り上げていきます。すべての土もまた身近にあるもので、ご縁があったものを活かして甦生させていきます。

この竈は、竈の神様である三宝荒神、その横には愛宕神、火伏の神様たちをお祀りしている真下にあります。暮らしの中心にある火は、竈の神様と共に私たちの人生を支えてくれる存在です。これらの存在を自分たちの手で甦生させていくことはいのちの火を甦生することで、先祖代々から今までずっと一緒に生きて助けてくださった日本の暮らしの道具と共に再び歩もうとする決意でもあります。

私たちは便利さと引き換えに今まで大切にしてきたものや、自分を助けてくれてきた道具を不要だと捨てていきます。日本にはもともと「勿体無い」という精神があり、お役にたってくださったものへの御恩を忘れずにそれを大切にしてきました。さらには役に立たなくなったのは自分の見立ての問題だとし、見立て違いを反省してさらに他のお役に立てるように配慮をして大切に尊んできました。

今では新しいものが価値があるとし、古いものは価値がないとさえ思われ捨て去られていきます。しかしこの捨て去られるものは、今まで役に立ってきたものであることは明白です。自分の都合で損得利害を測り、要不要を捌いては捨ててしまうという考え方はこの地球上でみんなで助け合っていきる共生の概念とはかけ離れたものです。

古の道具は、暮らしを一緒に生き延びてきた智慧と共にあります。田んぼがあれば、そこには稲藁があり、土があり、そしてお米があります。牛があり鶏があり、馬があります。さらには、トンボや蛙、蜘蛛や土壌の菌類にいたるまで長い年月を共に暮らしてきた仲間たちがあります。

今では動物たちは食用にされ、虫たちは害虫になり、菌などは農薬で殺菌されていきます。一緒に暮らしてきた仲間たちを、自分たちの便利さや身勝手のために簡単に捨て去っていくということに悲しみを感じます。

私が暮らしを甦生する理由の一つは、かつての仲間たちを集めていきたいからです。自分たちの都合で捨てて本当に申し訳なかったと、そのすべてを拾って新しい価値を創造しようとしているのです。

その価値は、人類の未来を変え、世界の行く末を変えていきます。

引き続き、子どもたちが末永く仕合せに豊かな心で暮らしていけるように今できる最善を盡していきたいと思います。竈の神様が見守ってくださっている安心感に包まれながら暮らしの実践を高めていきたいと思います。

子ども第一義の第一歩

明日からの天神さまのこども縁日の準備で故郷に帰ってきました。これからいつものように天神様に所縁のある掛け軸や木像、牛や梅などをお祀りし準備を整えていきます。天神様が喜んでいただけるだろうか、また古民家が喜んでいただけるだろうかその気持ちの中に古来からある日本のおもてなしの精神が入ります。

天神様の菅原道真公は、「和魂漢才」といって菅家遺誡には「わが国固有の精神と中国の学問と。また、この両者を融合すること。日本固有の精神を以って中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう」と記されます。「菅家遺誡」は、菅家の子孫のために言い遺していく遺言のようなものです。

現代の西洋文化にとって代わられた姿を観ていると、菅原道真公はどこまで先を観通していたのかと畏敬の念が湧いてきます。

この和魂とは、大和魂のことを言い日本の民族精神のことを指します。たとえどのような海外からの技術が入ってこようとも、その根底に日本的精神があるのならどんな技術すらも柔軟に正しく活かすことができるということです。

現代は様々な新しい技術が渡来してきます、衣食住だけではなくそれはIT技術であったり、遺伝子組み換え技術であったり、核融合の技術であったり、ありとあらゆるものが猛スピードで世界で行き来するような時代になっているともいえます。まもなく人工知能が発展し、私たち人類は大きな岐路に立たされることになります。

その技術の本質や意味を正しく咀嚼できなかったり、直観的にその技術が何をもたらすのかを掴むこともなく、便利だからと深く考察せずに便利な技術に飛びつけばその後、そのことから取り返しのつかないような事態に陥ることもあります。なぜなら便利な道具は使い方次第では人間にとってとても危険なものにすげ換ってしまうこともあるからです。それは歴史がすべて証明しています。

だからこそ人類が優先する必要があるのは自分たちの先祖たちが自らの人生体験で築き上げてきた経験からの反省や改善してきた生き方、いわばその暮らしの文化を学び、その精神を民族の一人ひとりが責任をもって身に着けることとです。

私たちの場合は和魂といい、それは私たちの先祖が自然との共生の中で築き上げてきた風土の智慧です。それを大和魂といい、どうすればこの地球上において長く平和に睦まじくお互いに貢献し合って生きていけばいいかを精神に宿し遺し文化にまで高めたものです。

その代表的なものに日本民家があり、暮らしの行事があります。この日本民家と暮らしの行事は、日本文化を幼少期の子どもたちに伝承するために遺された先祖の遺誡であり、智慧の結晶です。それを幼少期に体験することで人類はその風土の文化を学ばずとして学び、教わらずして教わったのです。

この伝承の大切さを私は気づき、それを恩返しの柱にしているとも言えます。明日からの子ども縁日は、子ども第一義の理念を掲げる私たちの会社の大きな第一歩になると信じております。

天に問う

先日、天神祭の中で新宿せいが保育園の藤森平司園長から「学問」についてお話を拝聴するご縁がありました。その中で、学問の「問う」とは何かそれは天に問うことであるということをお聴きしました。

今では学問は知識を詰め込むことのように思われがちですが、古来からの学問の本質は「天命を問う」ことであったように思います。

江戸時代の藩校の最高峰であった昌平坂学問所に佐藤一斎があります。この方の遺した「言志四録」はその後、多くの日本人を育ててきました。明治維新の際には、維新の志士たちの座右の書として長く愛読されてきました。その中の一つに天命について記されたものがあります。

「人は須らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」

意訳ですが、「人間は真摯に省みる必要があります。それは天がなぜ自分を創造し、私を何に用いようとなさっているのか。私はすでに天が創造したものであるから必ず天から命じられた大切なお役目がある。そのお役目を慎んで果たそうとしないのならば必ず何かの天罰があるはずである、それを真摯に省みるのなら自分勝手に安逸に生きていくことはできないと知ることになるだろう」と。

そもそも自分は自分のものではない、自分はすでに天のものであるという考え方が根本にあるのなら、自分の生は天命であるという覚悟が決まるように思います。天が何を使役させようとしておられるか、天が何をしてほしいと願っているか、「主語」を自分ではなく「天」にすることこそ本来の命を活かせるということでしょう。

この「天に問う」とは、自分の天命を知るために問うように思います。天命を知るためには、人事を盡してのちよく慎み省みて天が何を与えてくださっているのかに気づかなければなりません。

自分に与えられている道はいったいどんなものなのか、誰かの道ではなく自分に与えられた道があるのだからその道を歩まなければ天罰があるはずです。その天罰は、そうではないよ、そっちではないよと教えてくださる偉大なる罰のことです。それを素直に謙虚に聴いて歩んでいくのなら、後になって「ああ、これが私の天命だったのか」と知るに至るのです。

迷わずに生きている人は、とても強いように思います。あれもできるこれもできると選択肢が多い人よりも、これしかできないと選択肢がない人の方が迷いがありません。迷いがないから自分の天与の道に専念できるように思います。

人はできないことをやろうとするのは自分が主語になりすぎるからです。できないことは悪いことではなく、自分にしかできないことをやることが本来の学問の意味であり天意を知ることにつながると思います。

私は善い師に巡り会い人生の早い時期に、自分にしかできないことは何かと考える機会を多くいただきました。その師の根底の精神には常に「天に問う」があったように思います。

論語では、「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」とありますからこの十年はしっかりと天と対話しながら歩んでいきたいと思います。引き続き、子どもたちの未来のためにも今を大切に生き切っていきたいと思います。