歩み方

過ぎてしまったことというのは取り返しはつきません。だからこそどう今を生きるかというのは誰にも問われています。さらにいれば、今はどう生きるのか。常にそれが問われます。

生きていると日々、瞬間瞬間は試練です。

今、判断したことが未来になります。

だからこそ、今、どのように生きたか、何を優先したか、心はどうであったかと自問自答して内省します。そもそも内省というのは、自己との折り合いでもあります。様々な出来事がある中で、時には何かに巻き込まれてしまうことがあります。油断大敵ともいいますが、知らず知らずに油断してしまうのです。

だからこそ油断しないように、常に今に集中して判断を磨いていきます。

人間が相手の場合もあれば、自然が相手の場合があります。どんな時でも、真心や思いやりをもって歩むことができたか。人間性を失わないで、豊かな心を育んだか。日々の微細な現象は、試してくるものです。

私の場合は、自分の体験がきっと誰かのお役に立つと信じることや、自分の気づきが、子どもたちやご縁のある方々の勇気になること。そして全体最適に、来たご縁の中で精いっぱい生き切ればそこに何か大切な伝承があると歩んでいます。

いろいろと発生しますが、きっとこれが何かいいことになると信じ切る事。

人生は生き方、そしてそれは歩み方。

歩み方を調えて、日々を調和していきたいと思います。

新体制

夏至から七夕までの大切な時季に、株式会社カグヤは新たな経営体制に甦生しました。野見山広明は代表取締役会長に就任し、眞田海が代表取締役社長に就任します。

なぜ今、代表を交代するのですかと尋ねられることがあります。なぜか若いのに悠々自適な生活を送るのかといわれたり、仏門にでも入るのかなどともいわれます。世代交代や事業承継ですかともいわれます。

しかし本質は「甦生」の実践です。これは古民家甦生でも、結の甦生でも、暮らしその甦生でも同様にいつも取り組んでいるものの一つです。

そもそも自然界には、永遠に同じ姿のままで存在するものはありません。諸行無常ともいいますが、実際には変化し続けるものです。植物でも人間でも生死は循環します。しかし、そのいのちは姿を変えては永続し続けます。これが自然の徳です。

伊勢神宮に1300年以上続いている「式年遷宮」というものがあります。これは二十年ごとに社殿を建て替えながら、技術も祈りも精神も受け継がれていく知恵の実践です。これは新しくなるのは建物だけではなくそこに携わる人が育ち、次の役目へと移り、その人がまた次の世代を育てていく実践です。どんなに変化しても、その初心は伝承していくという仕組み。神道ではこれを常若といいます。

常に環境の変化や時代の変化を受け容れながらも初心を忘れずに甦生し続けることが、先人が私たちに遺してくれた大切な経営の知恵です。日本にある数百年も続く老舗などもその知恵を経営に取り入れてきました。

株式会社カグヤは創業以来、「子ども主体」の保育を通して、未来の子どもたちが安心して暮らせる社会を目指し経営してきました。

これからもそれを変えるつもりはありません。新体制は、その使命を果たすための新しい一歩でもあります。これまでカグヤを支えてくださった皆様への感謝や御恩返していくためにも、これからも「子ども第一義」の初心を忘れることなく、徳を循環させ、場を醸成し、甦生の歩みを続けていきます。

七夕の短冊に願いを籠めて。

一期一会 野見山広明

雨と修験者

最近、線状降水帯という言葉をよく聞くようになりました。これは予報の科学的技術の精度が上がったこともありますがこの20年ほどで豪雨の質量が約2倍以上になったこともあるといいます。

私の故郷は遠賀川をはじめ英彦山からの本流域の中にあり、川の近くにいるからか大雨洪水は感覚的に危険だと幼い頃から怖れていました。最近は宿坊に滞在することが多く、お山のバケツのような雨に下流がとても心配になります。

英彦山は九州では非常に珍しい三分水嶺です。北西へ流れる水 は 遠賀川から響灘へ。北東へ流れる水は今川から周防灘へ。南東へ流れる水は山国川から周防灘へ流れます。

修験者たちはこの水の流れが四方に流れる様子にいのちを観ていたといいます。

それが谷ごとに神仏がいると信じられ、それが大切な修行場となりました。いのちが産まれる場所をどう調えていくかが、修験者たちの使命と役割だったのではないかと私は思います。

谷ごとに如何にお水を調えて、下流へ穏やかに流れてもらうか、そして海に豊かで穏やかな状態で届けるか、そこには場を清め調えるという大切なお役目があったように思えて仕方がないのです。

なぜなら宿坊は、谷にありお水を見守るように建っています。お水が穢れないよう、暴れないようにと場を調えているのが宿坊とも言えるからです。だからこそ、谷ごとに神仏が設置され、修行場が存在していたように思います。

鎌倉時代に編纂された『彦山流記』には四十九窟(修行窟)が明記されますが江戸時代にはさらに多くの谷が修行場として利用されるようになったとあります。英彦山一帯には大小合わせて三百を超える谷があると伝えられ、やはりここでも「谷ごとに神あり、水ごとに仏あり」と伝承されてきました。

私たちの谷は、弁財天が祀られます。神様としては瀬織津姫です。この時季、英彦山はお水に包まれまるで水中にいるかのようです。

豪雨災害が増えたからこそ、修験者たちのいのりや場づくりは今まで以上に大切になります。丁寧に暮らし、お手入れをして調和していくようにいのりを実践していきたいと思います。

未病を治す

養生というものがあります。これは「生命を養い、生きる力を育てること」とも定義されます。「養」は養う・育むこと、「生」は命・生命を意味していて命を大切に育み、天から授かった生命を十分に生かすための生き方のことをいいます。

本来人間は自然の一部です。ついつい忘れてしまいますが、自然から離れることで様々な不調和が発生してきます。それが精神をはじめ心身の不調和を起こし生命力が弱り病気になります。

現代はそれをサプリや薬で補おうとしますが、そもそも不自然な暮らしの中で病気を産むような生活をして対処療法ばかりを続けていてもそのうち限界を迎えます。その前に、自然に沿った暮らしによって限られた生命力や自然免疫力によって快復していくことに努める方が安心ということでしょう。

古代中国の医学書である黄帝内経に、「聖人は已病を治さず、未病を治す」と記されます。これは優れた人は病気になってから治療するのではなく、病気になる前から暮らしを調えることで病気そのものを未然に防ぐという意味です。

養生とは、この「未病を治す」という思想を日々の暮らしの中で実践する方法ともいえます。

日本で養生訓を記した貝原益軒はその著書の中で、健康の秘訣を特別な薬や秘術に求めず、食事、睡眠、労働、休息、節度、心の持ち方といった日常生活の積み重ねにこそあるといいました。

そしてその3本の暮らしの柱は、身を養い、心を養い、徳を養うともいいました。私なりに深く洞察するなら、徳を磨き積むことが心身そのものを調え、自然に沿った生き方になり人間のいのちが真に豊かに全体と喜び合えるように暮らすことができるということでしょう。

そして養生には、食の養生というものもあります。自然のめぐりに沿って食べていく知恵。例えば春は芽吹くもの、夏は体を冷ますもの、秋は潤すもの、冬は温め蓄えるものなどです。

当たり前のことですが、現代はこの当たり前ができない環境の中で暮らしています。

子どもたちが将来、何が自然で何が不自然かの軸が失われないように場づくりを通して結んでいきたいと思います。

 

カグヤの節目

人生を振り返る中で節目を乗り越えて心は強くなっていくようにも思います。竹の節のように、節があるから竹も強くしなやかになっていきます。私たちの会社、カグヤのロゴは竹です。

竹をシンボルにしたのは、竹のもつ不思議な力への尊敬、また成長することへの畏敬からです。そもそも竹は古くから、日本人にとって強さや清らかさ、しなやかさの象徴とされてきました。その中でも、竹の「節」は、単なる見た目の特徴ではなく竹の生命を支える重要な役割があります。

竹は木のように年輪を重ねて太くなる植物ではなく、短期間のうちに驚く速さで成長します。それは節があるからです。成長の過程で一定の間隔ごとに節がつくられ、節と節の間は「節間」と呼びます。この節があることで、内部が空洞で軽い竹でも強度が保たれ自然災害や風雪などの大きな力にも耐えられるしなやかさ持てるのです。

節がもしもなくなれば、すぐに折れて曲がります。竹のしなやかさはこの節があるからです。節は成長を止めるように見えますが実際には止めるものではなく、次の成長へ進むための確かな土台となるのです。

竹が節を重ねるほど丈夫になるように、人間も同様に丈夫になると信じられてきました。日本には「節のある人」という言葉がありこれは、自分の信念を持ち、約束を守り、筋を通して生きる人を意味するといいます。また、「節度」という言葉もあるように自分を律し、何事にも行き過ぎることなく、調和を保つことをいいます。

竹の節やいのちの節目によってはじめて様々禍を福に転じる力になるのです。

東洋思想では真っすぐに伸びる姿は誠実さを顕し、中が空であることは謙虚な生き方を顕し、風にしなやかに揺れる姿は柔軟性を顕し、節は修行や人生の節目を顕すと考えられてきました。

一つ一つの節目を大切に味わい、それを見守るたびに豊かな成長があることを信じたのです。

子どもたちの成長をいつまでも見守り続けられるように竹の節のように生きて生き方を譲り伝承していきたいと願い、この七夕の大切な時季に新しい体制を甦生することになりました。

お陰様に見守れ、素晴らしい仲間に恵まれ、深く感謝しています。

新しい代表取締役社長と力を合わせて竹のように清々しく素直に新たな挑戦をしていきたいと思います。

あっという間の人生

久しぶりにゆっくりと20代から50代までの30年間を過ごした東京でのことを、会社の周辺を御礼参りしながら思い出しているとあっという間に流れた刻を感じました。夢があるだけで他は何もなかった若いころ、ただ只管に仕事のためだけに真摯に生きていました。

葛藤ばかりでしたが、多くの有難いご縁に恵まれ、夢が大欲となり目的を忘れない生き方をしようと働き方を変えてきて今があります。

現代は、制度や組織の中で初心のようなもの、目的を見失いがちです。成熟していく制度や組織は、その仕組み依存して人は流されていくものです。ただ制度や組織や仕組みに従っていれば正しいと思い込み、目的が手段に入れ替わっていきます。

例えば、学校であれば学校に行くことが目的になり本来の人間が育つことを見守ることよりも方法の方が目的になっていたりします。制度は手段でしたが、そのうちそれが守られることが目的になります。これは会社も同じです。理念を優先するよりも、組織を守ることが目的になっている会社はたくさんあります。それくらい日々の業務に忙しく流されていたら忘れてしまうのでしょう。

だからこそ生き方と合わせて働き方を変える必要がありました。

そしてそれがかつての先人の智慧、「暮らし」であったのです。暮らしを変えるというのは、生き方と働き方を一致させるということです。それを私は暮らしフルネスと提唱して実践しています。

人生はあっという間です。

自分の一生など、残りあと生きられても十年から数十年でしょう。

医者から革命家になったチェ・ゲバラにこのような言葉があります。

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのか?あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのか」

大切な節目に、自分に問いつつ感謝で一日を過ごしていきたいと思います。

暖簾と信用

会社には取締役という存在がいます。この肩書は江戸時代からあるものでそれが明治の頃にそのまま今の会社法の仕組みに取り入れられた言葉だといいます。管理監督という意味もあるのですが、どのような経営をするのかでその言葉の定義も変わってくるものです。

例えば、義を持って利をという社風ではなくただ儲けだけをしている会社の取締役はお金だけを管理監督するのがその役割になります。反対に近江商人をはじめ日本的経営のように先義後利のような生き方を大切にする会社であれば取締役は理念を守り全体調和を調整する役割にもなります。

同じ肩書を持っていても、その本質はそれぞれに変わっているものです。

江戸時代などは「暖簾」という言葉を大切にしました。暖簾=信用だったからです。商売をするのに、何よりも重視したのは信用でした。

「暖簾は一代で作れないが、一代で失う」という言葉があります。

この暖簾とは、単なる店先の布ではなく、そのお店が長い年月をかけて築いてきた評判、信用、伝統、取引先との信頼、そして先祖から受け継いだ価値そのものをいいました。

老舗は、お客様をはじめ社員、関係者からの信用を守りました。その時代は社長は主人、そして取締役は番頭などとも呼ばれていますがみんなで暖簾に恥ずかしくないようにと自己を律して商人道を邁進していました。

暖簾は今のように大企業だからとか資本が大きいとか、テレビやマスコミに取り上げられているからというようなものではありません。暖簾という信用は、長い時間をかけての誠実に正直に、嘘をつかず信頼される実績の集積です。何代も何代もかけてはじめて暖簾は信用されます。一代ではつくれないのが暖簾でした。

しかし反対に、信用を失うのは一瞬です。もしも嘘をつき商品をごまかす、約束を破る、私利私欲のために経営をしたらそれまでの信用や信頼を壊し先祖先人から受け継いだものを次の世代へ渡せなくするほどのことだったといいます。

商家にとっての番頭、今でいう取締役は単に利益を増やす人ではなく、主人から預かった財産、従業員、取引先、そして何より「店の信用」を守る役目を担っていたといいます。

だからこそ誰を取締役に選ぶかというのは、暖簾や信用の一大事だったのでしょう。そして従業員もまた同様にみんなで暖簾を守りました。

よく考えてみると、此の世の一大事の一つは次の世代に受けた恩や徳を渡していくことです。今の私たちは先人たちの恩徳で暮らしています。だからこそ同じようにそれを手渡していくことが本来の道です。

商人道であろうが、経営道であろうが、大事なのは信用を受け継いでいくことであろうと思います。

よい機会に恵まれ、有難く信用を手渡していけます。引き続き、暖簾と信用を守っていくよう精進していきたいと思います。

徳の循環

式年遷宮というものがあります。これは20年ごとに社殿を建て替える伝承の取り組みです。今は63回目、次回は2033年に64回目になります。見事に甦生され、いつ拝見しても新しく若々しく瑞々しさが保たれています。まさに永遠の象徴です。

この式年遷宮は、人は変わっても同じ精神・技術・形を何度も新しく活かすという仕組みです。この20年というのが絶妙な期間で、これが100年になれば職人たちも不在になり失われてしまいます。20年に一度というのは、職人の人生であれば3回は立ち会えます。最初の1回目の若い頃は年配のベテランの技術者や宮司はじめ神社関係者に指導されます。2回目、3回目は今度はそれを指導する側として同じことを取り組みます。

いくら同じ精神、技術、形があっても材料も人の環境も気候も価値観もすべて異なります。

それでも永続して初心を守ろうと取り組むところに、甦生の本質があります。

此の世の真理として死なないものは一つもありません。誰もが産まれては老い、死にます。死なない存在はありません。それがこの世の摂理です。だからこそ、人は死なないことを永遠とするのではなく「循環」することを永遠と定義したのでしょう。

循環し続けても、本質は守り続けるという実践。

日本にある老舗はみんなそれを守っています。式年遷宮と同じことをずっと繰り返しているのです。私の友人の会社や寺院も何世代も続いているところがあります。今でも何百年前のままに老舗を経営しています。

時代は廻ります。

たとえば、戦争の時もあれば平和な時もある、あらゆる天災人災に遭います。しかしそうであってもその時々の人が初心を守り本質を維持していたから今でも元氣に若々しく経営を続けています。それはそれぞれの老舗が「循環」を守ってきたからです。そしてこの循環には思いやりが必要で、次世代のためにと生きた先人たちの存在が不可欠です。

それを私は「徳」と呼びます。

徳が循環するというのは、永遠に甦生するという知恵の伝承なのです。

引き続き、人類、および子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるように残りの人生も真摯に働いていきたいと思います。