真の徳育

人間には、自然の中の一部としての人間と自然を管理する側の人間というものが存在しているようにも思います。自然の一部の人間は、自然に対して謙虚に人間性を保つという具合に分を定めて慎まやかに自然と共生します。しかし自然を管理する人間となってくると、自然に対して敵対しお金や法律を設けて人間の社会のみを至上主義にし自然を排斥するという排他的な行為を行います。

そもそもむかしはお金というものがなく、物々交換で暮らしていた時代がありました。今でも世界の少数民族の一部には、森の民といって山を手入れしながら移動して暮らしている人たちもいます。彼らの特徴は、自然の中で分を弁え自然と寄り添いながら生きています。しかしここにも現代のお金や法律が入ってきて、自然の他の野生動物たちと同じように排斥されています。

この世には道理というものがあり、因果律という仕組みがあります。

自分たちが排斥すると、いつかそれが巡り巡って自分たちが排斥される番になるということ。自然の動植物をはじめ、あらゆる生き物たちの生活圏を奪えば自分たちもそこに住めなくなっていきます。砂漠化もその一つですし、現在の激しい気候変動も因果律に従って発生しているものです。

なぜ人間は、今だけしか見なくなっていったのか。「今ここ」ではなく、「今だけ」というのはなんと刹那的な見方でしょうか。都合が悪いことには蓋をして見ないことにする。それに「意味がない」と無視を決め込み「意味がある」ことは敢えて面倒くさいから考えないようにする。なぜこのようにいつまでも寝ぼけた状態のまま生きるようになったのか、平和ボケという言い方をする人もいますがそれは単に寝ボケのことで平和はみんながいつまでも目覚めているから持続するのです。

本来は、もっと先の子孫のことや長い目でみてどうあるようにするかを思うと今ここに私たちがとても大切な役割をいただいていることに気づけます。これが忘れ去られ自分のことだけになったのは、環境としてもお金や法律が覆っていますが実際には教育の影響が大きいように私は思います。人間が目が醒めないような教育になっているということです。もっと言えば、ぼーっとさせられるような環境と教育に包まれているということです。

例えば、食べ物でいえば添加物や防腐剤、白い砂糖や精製塩、他にも化学的なサプリを飲むと頭がぼーっとします。それにひたすら勉強させられたり、次々に詰め込まれて忙しくなると何も考えられなくなります。人間は休みをきちんととれないと余裕ができず考えることをやめてしまいます。日頃から考えないで頭ばかりで計算する日々を送れば送るほどに、ぼーっとする毎日を送ります。

このぼーっとするというのは、何も腑抜けていることを言っているのではなく今だけ金だけ自分だけの状態になっていることに気づかないということです。時間のほとんどをお金のことや自分のこと、そして今のことだけに費やすのです。それを消費といいます。消費させられ続ける状態に気付くこともなくなることがぼーっとすることです。そしてぼーっとしているうちに先人たちの血と汗と涙の結晶であった大切な伝統や智慧や文化を失っていくことが多いのです。その証拠に、風土から伝統的な暮らしが消失しています。

人間は何のためにとお互いに問われる機会が少なくなると、お互いに初心や理念を忘れてしまいます。そうならないように場を設け、何度も三省し、内省を続けて目覚め続けること、ぼーっとさせられないような工夫が必要だと私は思います。

今の時代、世界を導くためにもしたたかに賢く、そして勇気をもって実践し、如何に自然と人間社会の折り合いをつけるかを見出し、自然界と人間界の橋渡しを調える人たちが必要ではないかと感じています。それはいいところ取りをしている都合がいい人というわけではなく、バランスや調和とは何かというのを実践していく精神や心魂が研ぎ澄まされた徳のある人物になっていくということです。

徳は何がバランスなのかを自然に見極めていくものです。つまり徳の人とは自然と人間との調和を実現する人のことです。

世間の言う道徳教育は、文字で教え込もうとします。しかし先人は、文字ではなく実践で真の徳育を実現していました。例えば、二宮尊徳のように実践や暮らしの中で醸成され伝承していく方法などはメソッドではなく生き方や道への入り方を指導していました。

今の時代、何をすることが真の徳育となるのか。それを真の教育者たちは問われているように思います。徳は教えられるものではないからこそ、真の徳を実践する仲間を増やしていくことだろうと私は思います。

引き続き、私は暮らしフルネスの中で真の徳を學び研究し、子孫たちのために自分の役割を全うしていきたいと思います。

石膏文化

現在、法螺貝づくりをしていますが石膏を用いて唄口をつけ調律をします。この石膏の扱い方が上手に扱えるかどうかはとても大切な要素になります。石膏はあっという間に熱を持ち固まりますから、微細な調整を短時間で行う必要があります。私は蕎麦打ちや落雁など粉を扱う機会も増えていますが粉でもそれぞれに個性があります。

石膏もいろいろな種類を試しています。水分量でも時間や強度も変わりますし、石膏の会社でもそれぞれに個性があります。石膏は粉から固まるまで変化し続けていますから、タイミング悪く扱うとやり直しです。

もともと天然石膏は太古のむかし海底だったところに死んで沈んだ生物の骨(カルシウム)が堆積したものです。それから長い年月がたち海水が蒸発して干上がったときにその堆積してできた層が海上に現れ山になったところで採取されます。岩塩などに隣接して産出されるところが多いと言います。最近では化学石膏といって化学工業で出る硫酸分とカルシウムを科学的に結合させてつくるものもあります。特徴は化学反応でつくられるので不純物がほとんど入らないそうです。

この石膏は身近では、骨折のギブスや建築の石膏ボードなどでよく見かけます、かつてはエジプトのピラミッドなどでも石を繋ぐところの接着に使われていたともいわれます。

この石膏ボードが固まる理由は、150度から200度で焼いて粉にして乾燥したものをもう一度お水を含ませることによって結晶同士が結び直します。それで固まるという理屈です。

法螺貝では、水と混ざり合わせてから15分ほどで粘土のように固まり始めます。固まり始めてからは1分弱で石のように固まります。その間に、調律を含めて行います。

石膏はとても不思議な素材で、毎回、色々なことに興味がわきます。私は麻炭を入れていますが、他にも色々と混ぜ合わせて試してみようと思います。不純物があるからこそ、天然の善さも引き立つものです。

子孫たちのために、石膏文化も伝承していきたいと思います。

暮らし伝

昨日は、盂蘭盆会の準備であちこちの場を調えご供養とおもてなしをしてきました。子どもたちも一緒にお墓の掃除やお花のお手入れ、そして手を合わせてはゆったりとご先祖様たちをお迎えしてきました。

最近ではお盆休みに帰省もしなくなりお墓参りや先祖供養もなくなってきたといいます。何のための御盆休みかなどの意味を忘れ、暮らしの中で伝承している知恵も暮らしの消失と共に忘れ去られていきます。

お寺でも造花になっていたり、火は危ないからと自動電灯になっていたり、念仏が音声で流れてきたり、お供えものもプラスチック製品で見た目だけ似せたものになっていました。形だけ残しては心を残さないでは、本来の暮らしの智慧として伝承も残らないはずです。

私たちの先祖は、意味や目的をいちいち考えなくても暮らしの中で年中行事などを自然に取り入れ子孫たちが自然にその意味や目的を直観し理解できるように伝承してきました。口伝というよりこれは暮らし伝ということでしょう。

私が提案している暮らしフルネスは、この暮らしの伝承を行うものです。

暮らしという言葉も、なんだか現代では暮らし風のことを暮らしと呼んで消費活動の一環にされているところが増えています。暮らす宿という言葉も。暮らしていないのに暮らす宿とはどういうことかなと。私は日々の暮らしフルネスの実践の中で、お迎えして一緒に暮らしの伝承をすることを暮らしている宿坊として暮らす宿とはいいますが明らかに異なるのは主人がいるかどうかです。家と主人があってはじめて暮らしの智慧は伝承されていきます。

最近では、広告詐欺というかスーパーなどにいけはそういうものをたくさん見かけます。無果汁なのに果物ジュースとしていたり、無添加といいながらたくさん科学添加物をいれていたり、産地の名称を謳いながら実際には会社名であったりと嘘だらけです。

便利なものの方が価値があると信じるようになれば、多少の嘘は正しいことになっていたりします。なぜならそれが便利であるという証明だからです。嘘は便利なのです。

しかしその嘘をついたことによる代償が発生します。それは嘘が伝承を破壊するということです。見た目だけ形だけでも便利だからいいとするとき、心は置き去りになっていきます。

心で味わうからこそ、暮らし伝は継承されていくものです。

丁寧にこれからも暮らしフルネスを通して子孫たちへ伝承していきたいと思います。

 

法螺貝づくり

法螺貝づくりを進めていますが、貝の個性がそれぞれにあり一筋縄ではいきません。今回は、20の貝を仕上げていますがあまりにもそれぞれの個性が強く自分の感受性が試されています。

元々、保育の道を深めそれぞれの個性を活かすことや発達にあわせて変化させることなどを学んできました。経営もまた、人の徳を活かす日本的な方法を学んできました。法螺貝づくりはこれまでの人生の集大成の一つとも言えます。

私の手元にある法螺貝は、ある意味で抜け殻ですが実際に貝が生きていたころはどのような貝だったのか。それを抜け殻からもたくさん連想できます。また厚みや傷などでその一生がどのように過ごしたのか、あるいはどのような海にいたのかまで直観で伝わってくるものです。

私の手元で第二の一生がはじまりますが、時には音を求めるあまりに深く傷を入れてしまうことがあります。修復しますが、自然物に傷をつけてしまうことに申し訳なさも感じます。実際には、絆といってその貝との関係性ができますがはじめてその法螺貝を手に取る人に手渡す以上、傷のないものをと慎重になります。慎重になるほどに、貝の音の潜在意識を発揮してもらうための調律に迷いもでます。

吹く人のことを思い仕上げていきますが、妥協するところが探せず肩の力を抜いては深呼吸して集中して作りこむのみの日々です。

しかしひとたび、善い音に辿り着けば苦労もすべて報われます。見事な鳴動で波動が響くと、その貝の新たな息吹を感じて嬉しくなります。

どうも私は甦生していくのを見守るのが好きで、心はとても仕合せを感じます。

引き続き、盂蘭盆会の合間にご先祖様たちのことを思い日子山仙螺の法螺貝づくりを続けていきたいと思います。

記憶の成熟

人間の記憶というものは面白いものです。生まれてからずっと今まで様々な記憶を持っています。基本的には主観で得た記憶ですが、心の中の空想や妄想でも記憶は変わります。それに夢をたくさん見るうちにそれが現実の記憶と同化することもあります。さらには、亡くなった人や会えなくなっている人の記憶が混然一体になることもあります。記憶は私たちの意識そのものであり、存在そのものです。

記憶は、時間や環境によっても変わります。同じ場所にずっといても、似た記憶は上書きされるか忘れてしまいます。かつての楽しかった記憶はまた同じような体験をしたがりますし、乗り越えたい悲しみもまた似たように記憶が求めます。記憶がどうしたいのか、記憶がどうありたいかでこの今の記憶にも影響するのです。

よく魂の記憶といって、前世の記憶があることを言ったりします。しかし実際には、記憶=魂でありその両者は同一のものです。記憶が一つに同化していくのもまた、魂が記憶を通して同化していくからでしょう。

この記憶は人間や脳があるから記憶を保持できているのではありません。無機質の物体にも同様に記憶はあります。人間は同じ種族でないと、同じ能力がないと思い込んでいたりします。例えば、言葉を喋らないから言葉はないと思い込むし、眼がないから見えていないと思い込みます。耳がなければ聴こえないとも。

しかし実際には、虫も植物も私達とは別の方法で喋るし、聴こえるし、観えています。当然、記憶もあるのです。

言い換えれば、この宇宙や地球にいて一緒に生きているのならみんな同じ能力があるということです。それがそれぞれに異なるということです。

虫でいえば、触覚や感覚、念や体で喋りますし、無機質な物体でも波動や共鳴、振動などで別の周波数を通してそれらを確認します。

記憶も同様で、すべてに魂が宿るように記憶も宿るのです。

記憶が宿るからこそ、その記憶に触れて、それを同化して今の時代も共に過ごして新たな記憶として成熟していくのです。

記憶の成熟こそ、私たちが本能で最も求めているものではないかとも私は思います。子どもたちや子孫たちにもそれらの記憶を丹誠を籠めて見守り、よりよいものへ甦生し伝承していきたいと思います。

食事とは

昨日は、家族みんなで誕生日会を行いました。日頃の感謝を込めて、それぞれに料理を持ち寄りみんなで食事を楽しみました。両親は両親らしい畑の滋味や日頃美味しく食べられるようなものを。子どもたちはそれぞれに今の心境や環境、そして得意としているものを用意しました。私はスープやサラダ、ご飯などでしたがそれぞれに持ち味をを活かした愛情あふれる料理でした。

ふと考えてみると、普段何気なくみんなで一緒に食事をする時間ほど豊かなものはありません。家族がいるというのは、一緒に食べる相手がいるということでもあります。一緒に食べる相手がいるだけで食事は美味しくなります。家族との思い出の多くは、この食事を共にする中に存在するように私は思います。

思い返してみると、会社の経営でも学校生活でもみんなと食べるたびに一つにまとまっていきました。みんなで食べるために協力して場をつくり、調え、分け合い、共に過ごし、片づけました。

きっと太古のむかしから人類はこの記憶が本能に刻まれ、食事をするということが単に栄養を取るだけではないことを知っていたように思います。

たとえ文化が異なっても、民族が異なっても、言葉が通じなくても一緒に食事をすることで一つになります。

今日もこれから亡くなった義父の49日の法要で親戚一同みんなで集まり会食をします。故人を偲び、ゆったりと穏やかな気持ちでみんなで食事の時を過ごします。

食事というのは、単に食べることが目的ではなくみんなの心を一つにするためでもあるのです。

食事は私たち人類にとってもっとも身近な生活文化であり信仰であり智慧そのものです。丁寧に伝承して未来へと結んでいきたいと思います。

手心

昨日は、法螺貝の削る作業を長時間行いました。天然物なので、毎回どのように削り空気を通すかで判断を迷います。少しでも気を抜くと削りすぎたりします。削らないようにしても判断を迷いますし、削っていても判断を迷います。迷いながら削りますが、その方が慎重で大胆にできるので結果としては問題なく行えます。

手加減や手触り、手心など手にすべてを集中します。心は手から離れません。手というのは、相手があってその手を使い分けます。例えば、守っ手という手、観て手という手、治し手という手。あらゆる相手の状況に合わせて手を使い分けます。いわゆる、使い手次第ということです。

使い手とは、それを使う人によるという意味です。使い手が巧であれば巧みに使います。使う人次第で、道具や相手との関係も変わってくるのです。

手練れという言葉もあります。これは熟達した人のことをいいます。

何度も経験や研鑽を積んだ人の手は、同じ手ではないということです。そして手は同時に心も鍛錬して習熟していきます。手をどれだけ大切に使うかは、その人がどれだけ心を大切に使うかにも由ります。

心は手を使いますし、手は心を使います。つまり心=手であり、手心というのは本来は真心をのものを顕す言葉なのかもしれません。

手心を加えるというのは、手加減をすることや寛大に扱うことをいいますが心は常に調整をし調和をしようと働いているのかもしれません。

法螺貝との調和を探しながら、一期一会の貝として甦生していきたいと思います。

煙との関係

現在、英彦山の守静坊に薬草を使った石風呂サウナをつくっていますが煙の扱いに苦戦しています。備長炭でつくった場の道場の時は、火を消してからの余熱で入るものでしたが今回は倒木など、森のお手入れでたくさんの木々を燃やすために燃焼しながら石風呂サウナに入る仕組みにしています。するとどうしても煙の問題が出てきます。

そもそも煙と何か、これは一般的には物が燃える時に発生する、軽くて目に見える気体の集合体のことを言います。簡単に言えば、不完全燃焼で燃え切っていない微粒子が空気中に漂っている状態です。有害物質を含むものがある場合は、特に健康被害が出ます。都会にいけばタバコをはじめ、排気ガスやダイオキシンなど日常的に煙は私たちの周辺でみかけます。

だからといって完全に害悪というわけではありません。人間は、お香にしたり蚊取り線香にしたりと工夫して使っています。煙も天然由来の成分で少量ならかえって効能があるということでしょう。人工物で大量になると有毒ということです。

現在、何度か薬草石風呂サウナを試していますが一酸化炭素測定器を使います。ほんの小さな隙間からも煙は入ってきますし、一酸化炭素を排出してきます。特徴的なものは、煙や一酸化炭素は上の方に溜まり下の方にはあまりありません。

火災の時は頭を下げて地面ギリギリにというのは測定器を使えばすぐにその道理がわかります。実際に火災で亡くなる人のほとんどは煙です。煙にまかれて視界が遮られ、また一酸化炭素が血中のヘモグロビンと化合して酸素を運搬することができなくなり意識を失い呼吸が止まります。

一酸化炭素中毒の初期症状は、軽度な場合、軽い頭痛やめまい、吐き気、疲労感などが現れるといいます。これらの症状は、血液中の一酸化炭素濃度が上昇し、酸素の供給が不足することで引き起こされます。そのまま症状が進行すれば頭痛が激しくなり、判断力の低下やけいれん発作、意識消失、低血圧で昏睡症状になるというプロセスです。

早い段階で気づくことができればいいのですが、気づき難いのがこの一酸化炭素中毒です。私はよく炭を扱っていますから少し隙間を開けたり、古民家であれば隙間があるので様子をみながら煙を使います。

煙は古民家にとっては家の寿命を延ばし、虫やカビなどの発生を抑制します。よく煙を浴びていることが多く、煙は有害といわれても煙は友達のように親しい存在です。煙を浴びた身体は、木材のタールなども沁みこみ皮膚病などを予防するともいわれます。防虫効果が高く、蚊やハチ、ブユなども寄り付きません。

煙の余韻は、そこで暮らす人たちの薫も育てます。この薬草石風呂サウナの御蔭で、山での暮らしが一気に豊かになりました。

煙は危険ですが敵ではない。丁寧に煙と向き合い、場を調えていきたいと思います。

炭の御蔭様

久しぶりに炭の講習会を保育園で実施してきました。私は炭との関係は長く、どの話をしようかと悩みましたが現地で直感で考えようということであまり資料なども準備もせずに講習しました。

現地では場づくりは発酵の話が湧き出てきて、炭の持つ別の側面の講習になりました。

そもそも炭というのは、場の触媒になるものです。触媒というのは、その物本体よりもその物を通して全体に大きな影響や関係を与える存在のことです。直接的な影響ももちろんありますが、間接的の方が威力を発揮するものも触媒するものともいえます。

場というものも同様です。

場が醸成されれば、その場が触媒となって全体に偉大な影響を与えます。それが触媒の持つ徳性の一つです。

炭の持つ触媒の効果としては、治癒、浄化、風通し、発酵、結界、調和、守護などを行います。科学的に解明されている分においては、遠赤外線や多孔構造の表面積による空気や不純物の吸着などがあります。

炭は太古のむかしから暮らしのなかで活かされてきた知恵の道具の一つです。

現代は、便利な生活のなかで次第に炭からも遠ざかってきました。見かけても消臭剤の中に入ったり、空気清浄機のフィルターになったり、あるいは畑に蒔くかバーベキューくらいです。

実際には、炭はそんなもので使うよりももっと多くの効能や価値があり現代の科学ても追いつかないほどの実力があるものです。

私は炭によって人生がとても豊かになりました。今では炭を見ない日はほとんどありません。場づくりも人づくりも、発酵もまたこの炭の御蔭さまでできるようになったともいえます。

炭が持つ魅力や真価を、場を通してこどもたちに伝承していきたいと思います。

落雁づくり

盂蘭盆会の準備に落雁をつくりました。今年は仲間たちに声掛けしてBAに集まり、みんなで落雁づくりの伝承をしてそのあとご先祖様の供養と一緒に和気藹々と暑気払いをしました。

私はいつもお盆の準備は早めに取り掛かるほうです。同様に来客の準備も早めにしています。理由は簡単で心がついてくるからです。心はゆっくりとゆったりと動きます。頭で考えるようにテキパキと動くことはありません。

心の動きというものを観察していると、時間差でいつもあとから追いついてきます。それは早くても数時間から十数時間後、長い時は数か月後、数年後というものもあります。私たちの心身の反応というものはゆっくりと調和するのです。

落雁づくりに戻れば、この落雁は米粉と砂糖とお水だけで混ざ合わせ木型に入れて取り出すだけのシンプルな方法で出来上がります。しかし、そのどれもが人間の手や指を使いつくっていきます。今はスーパーやコンビニで色が包装プラスチックに入ったものが売られていますがむかしはみんな家で手作りをしていました。

手作りの場合は、木型に混ぜあわせた粉を押し込みますがその時に一緒に指先から心を籠めます。ご先祖様の存在、そしてこの時季に帰ってくる魂たちの供養で喜んでいただけるようにと真心を入れます。

そうやって心を込めたものは一つとして同じ落雁はなくそして形は凛として調います。力と心を一体にするとき、指先や手には不思議な何かが宿るように思います。

私たちの手は、心を宿します。この手は日頃からどう使うかで心の在り方すらも変えていけるものです。

私たちは自分ともう一人、別の自分が常に同行しています。自れと己れ、これで自己一人ですがいつも自己は同行二人です。これを現代では頭(脳)と心と定義してもいいと思います。これを古来より陰陽とも呼びます。

陰陽調和するには、お互いに配慮しあう関係を結ぶ必要があります。この世にないもの、この世にあるものその調和もまた結びです。

お盆の時季は、この結びの調和に最適な節目であり歩みを同調できる豊かな時間です。

落雁の実践をしながら、日本人の心を暮らしフルネスの中で伝承していきたいと思います。