人間は、ただ生きるのではなく生き方を生きるように思います。どう生きたかというものが、どう死んだかということになるのです。気が付けば、あっという間に一生は終えていきます。どの時代を思い出しても、その時々で一生懸命生きてきました。多くの方々に見守られ、身近な方々に支えられ、人生というものを紡いでいきます。
憧れたものに近づけるように努力し、そうありたいと何度も初心を握りしめて選択してきた結果として今のものがあります。なぜ今のようになったのかと思い返せば返すほど、それは自分の選択であったことは間違いありません。
吉田松陰先生に、「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」という遺言があります。このようになるのがわかっていながら、至誠や真心があるから行動しないわけにはいかなかったという感じでしょうか。
保身のために生きていたらできないことも、死をも恐れずに自分の生き方を大事にしていくという一つのお手本です。
また孔子は、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」ともいいます。朝に真理の道を學ぶのなら夕に死んでも悔いはないとも。それだけ生き方が優先できるのならそれ以上の學はないということでしょうか。
孟子は、「仰いで天に愧じず、俯して人に愧じず」ともいいます。誰が見ていなくても自分の生き方を貫くことを説きます。その生き方が自然体であり天地の浩然の氣と一体になるということでしょうか。
生き方は、真に自己の人生を生き、そして死ぬための羅針盤ということかもしれません。
最後に、二宮尊徳の言葉です。
「生きているときは人で、死んで仏になると思っているのは間違いだ。生きて仏であるからこそ、死んで仏なのだろう。生きてサバの魚が、死んでカツオになる道理はない。」
死んだら仏様や神様になることはない、生きているときに仏様や神様のような生き方をしているからそのまま仏様や神様のようになるのだ。魚のサバがカツオにはならないのと同じ、だからこそどう生きるかが大切であるということかもしれません。
生き方を日々に調えて実行するのは、己に打ち克つための実践の連続です。
しかし短い一生、長さではなくどう生きたかを常に御守りのようにしていきたいものです。子どもたちが後を続いていきますから、どうあるか、どう生きるかを道を繋いでいきたいと思います。
