侍の精神

昨日は日本の「天下の三大揃え」の一つ、秋月の鎧揃えに法螺貝役としてお役目をいただき勤めてきました。秋月和紙の侍、井上さんとのご縁で参加してからはや五年目になります。

もともとこの鎧揃えは江戸時代の秋月藩における年中行事の一つであり、寛永14年(1637年)の島原の乱に際して初代藩主「黒田長興」(黒田長政の三男)が家中に命じて正月三日に鎧揃え(軍事演習)を行ったことが起源です。

その後は明治維新とその後の廃藩置県で秋月藩は消滅し、残された士族たちによって細々と続けられていた鎧揃えも昭和20年代には一度途絶えます。それから60年余りの時が流れ、平成21年(2009年)に地元有志により『秋月鎧揃え保存会』が結成され現代に鎧揃えを甦生しました。

この鎧揃えが生まれた背景を調べてみると江戸時代に入り最後の関ケ原の戦いが終わってから38年ほど経ち、武士たちも平和が続き平和ボケしていたといいます。実践経験のない武士たちはとても弱く、島原の乱に対応できず実践経験がある古参の武将たちがその時、とても重宝したといいます。平和ボケした武士は戦おうともせず、鎮圧もなかなかできず、一揆などがおき反乱する状況になるまで初期の対応もしなかった藩にも問題がありました。

つまり平和に油断していたことで被害が大きくなったのです。

この鎧揃えの年中行事の目的は、易経、孔子の『 安くして危うきを忘れず(安而不忘危) 存して亡ぶるを忘れず(存而不忘亡) 治まりて乱るるを忘れず(治而不忘乱)』の意味もあります。

これは安泰な時であっても危機を忘れず、存続している時も亡びる事を忘れず、治まっている時も乱れる事を忘れないこと。どのような時でも、油断してはならないという先人からの遺訓であり智慧の一つです。

そう考えて観ると、ただ伝統は繰り返し行っているわけではありません。この本質を守り続けようとする意志を伝承したものが行っている大切な実践であるのです。

現代ではどうでしょうか?

政治の無関心や先送り、そのうちなんとかなるだろうと何も主体的に動くことがなく、忙しさとお金儲けや目先のことで精いっぱい、誰かがやるだろうと他人任せにしては油断していないでしょうか。

今、もしも食糧危機が来たらどうするのか、もし近隣の戦争に巻き込まれたらどうするのか、もし大災害や金融危機が来たらどうするのか、ちゃんと対策はできているでしょうか。

私は暮らしフルネスの実践を通して、いつも危機に備えた暮らしをしています。自然と離れずに循環の中で食料や燃料やお水を確保し、徳を中心に据えた講のコミュニティをつくり、伝統の智慧を継承し、古民家を甦生しています。そして子どもたちの主体性を見守る環境をつくり広げ、最先端技術を温故知新しています。それでも油断してないかと色々と挑戦をしています。

武士道とは何か、商人道とは何か、日本人が大切にしてきた精神を守ることが治に居て乱を忘れずという実践ではないでしょうか。

引き続き、子孫のために志士たちの真心を紡ぎながら侍の精神を守り続けていきたいと思います。

徳と商人道

商売というのは正直であるというのは日本的経営では原点とも言えます。正直の徳というのは、太古のむかしから私たちの生き方として遺伝子に組み込まれているものです。以前、若い時に海外で仕事をしていた時に正直であるということを全く大切にしていない文化の国がありました。当たり前に正直ではないことを誇らしく話している人たちもいて、商談になるといつも騙されていました。騙される方が悪いのだと、これはこの国ではそうしなければ生きてはいけないとも言われ嫌悪したことを覚えています。

その時は何度も反省をして騙されないようにしようとしましたが、結局は手練手管で騙す人たちはずっと上をいくものです。そういう生き物だと思ってその時は対応しましたが、その後もその国にいくと似たような体験を続けています。

結局、文化というものは生き方や道と結ばれているものです。

日本ではいつではその生き方や文化が醸成されてきたのか。有名なものの一つに、石田梅岩の「石門心学」があります。これは江戸中期に説かれた商人道という生き方ですこれは「学問の至極といふは、心を尽し性を知り、性を知れば天を知る」ということを中心に語られます。

私の解釈では、学問とは真心を盡して天からの徳を知るという徳を活かす道を得る生き方であるという意味を感じます。

そもそもすべてのこの世に循環するいのちは、天の徳をいただきそれを活かしながら共存共栄していくものです。天地自然の道理を學ぶために石田梅岩は、勤勉・倹約・正直などを用います。

これは自然に學ぶことと似ていて、そのどれもがこの世の道理そのものです。人間社会だけで自然を無視すれば、嘘や欺瞞、放蕩経営、楽して儲けるなどの発想、つまり徳ではなく得に偏っていくものです。

私たちの先祖たちは、道として生き方を伝承し商人道を通して日本という国を象っていきました。現代でも、その考え方は通用するどころか今は何よりも一番大切にしなければならない智慧だと私は感じます。

引き続き、徳を磨いて徳を積んでいくことで精進していきたいと思います。

いのりの像

私の身近には数百年以上経た仏像や木像がいくつかあります。古民家甦生の関係で、古い家と関わると次第にそういう存在とのご縁があります。仏像には玉眼が入り、数百年経った今でも活き活きとしています。

そもそもこの仏像や木像に限らず、すべての神事や仏事で使われる法具や道具は祈りと共にあります。祈りが入っていないものは、どこかパサパサと乾燥してくすんでいます。しかし祈りをし、丁寧にお手入れをしているものはいつまぜも瑞々しくいつまでも新鮮です。

結局、これは家も同じく生きている状態にしている存在があるということです。その存在は、人の意識であることは間違いありません。

現代は、有名な宗教以外の人が何かをすると怪しまれたりスピリチュアルだとか言われることもあります。しかし、よく考えて観ると日本は古代から祈りは当たり前に身近にあり、神道であれば三種の神器をお祀りし、仏教でもお経や仏像を拝み、農民たちはその土地土地やご先祖様を敬い生きてきました。

そこで大切にされてきた存在の一つが、仏像や木像、また鏡だったということでしょう。

数百年経っても今でも残っていることがすでにすごいことですが、明治の廃仏毀釈などでほとんどが破壊されています。仏像や木像からしたら本当にいい迷惑な話ですがどれも人間が行うことです。

歴史というのは、人間がかつて何をしたかの事実を残します。その破壊されたものの一部が残っていたとして、それを現代の人がどうするかは現代に託されたものです。

大切に甦生していく過程で、私たちは何を祈ってきたか、どのようなお役目があったものかを意識を通じて伝承していくものです。

ご縁に感謝して学びを深めていきたいと思います。

月夜

最近は、毎晩のように月を見上げます。月の光の美しさが眩く、夜の存在感に圧倒されます。今では外灯が当たり前になり、家の中は電気で明々としています。しかしむかしに思いを馳せると夜とは何か、月夜とは何かということを直観するものです。

特に暗い山中や谷、あるいは大海原などで電気ない時代に月が出るとまるで一面が昼間のように明るかったのではないかと思います。私たちの眼は日頃、暗闇をはじめ自然の薄明りの中で過ごしていると夜目がきくようになるものです。

私も先祖伝来の遺伝か、夜目が利くタイプでよく見透すことができます。

そんな時、小さな明かりや月の反射などから全体を感覚で捉えることができます。月明かりさえあれば、あるい程度の立体感をはじめ生き物たちの気配なども観ることができるものです。

他にも家の中に差し込んでくる月の光は、全体を落ち着かせ物たちのいのちも映し出すものです。

陰翳の美しさはまさに月が照らします。

時代が変わっても、月の美しさは変わることはありません。普遍的な存在がいつも見守ってくれているという安心感は、子々孫々まで伝承していくようにも思います。

秋の夜空の美しさには懐かしさが漂います。

丁寧な暮らしを味わっていきたいと思います。

ご縁の物語

人生はご縁によって選択が決められていきます。そのご縁も最初は些細なことからはじまるものです。一見、関係ないように感じたものがのちの人生にとても偉大な影響を与えていくものもあります。振り返って見ると、あの行動がまさか今の選択になっているとはというものばかりです。

そのご縁は、人とのご縁もあれば場所や物、あるいは思い出など思い返すとどれもその時は思ってもいないものです。しかしその時、出会っていなければ今はどれもありません。

これは果たして選択してそうなったのかというと実際には選択したのではなく、はじめからそうなっていたとも言えます。これは別に運命論かどうかの話ではなく、事実としてご縁の前から始まっている物語の中に自分が存在しているということに氣づくものです。

つまりご縁というものの正体は、連綿と繋がり結ばれている中で自分の今が存在するということでしょう。それを直観させるものこそご縁というものです。なぜそうなったのか、なぜこうなったのか、分からなくても物語の中でずっとそれを読み続けているのならそのご縁が必然であることに氣づくのです。

面白いのは、あれがこうなったのかと振り返る時です。そしてこれがどうなるのかを予知する時です。さらに今の自分がどの物語の中でどう立ち振る舞っているのかを自覚する時です。人は、生き方や道を省みるとき実に縁尋奇妙な偉大な存在に感謝します。

同じ月を観ても、かつての月では氣づかなかったことに出会います。そして同じ暮らしをしていても常にご縁の展開は刻々と変化を已みません。この仕合せと安心感は何ものにも代えがたい一期一会です。

人生の喜びはご縁の中にある仕合せです。

引き続き、一期一会の今を大切にし徳を磨いていきたいと思います。

いのちの巡り

現在、畑の春野菜は次第に種になり次の季節までの準備に入っています。種はその前の季節の記憶を持ち次の季節に合わせていのちを成熟させていきます。あの小さな種が、土や水や光や風を経て大きくなっていく姿にはいつもいのちの偉大さを感じます。

私たちの身体もまた同様に、様々な季節を経てそしてあらゆるいのちを受けて成熟していきます。すべての存在とつながり、その存在によりいのちが成り立っているのです。このいのちの繋がりの中にある自分というものは、いつもそれぞれのいのちを循環させて通過させているのがわかります。

まるで風が身体をすり抜けていくように、光が身体を透過するように、まるで水が濾過していくようにいのちは溶け合います。

いのちの正体とは、形を変えてはそのものになりいのちを理解していく。時には植物となり時には虫となり、時には動物にもなる。意識の集合体がどの場所でどのようにいのちを察知するか。私たちは文字や言葉を使いますが、いのちはお互いを察知するものです。

季節というものは、その察知することにおいてとても秀逸に感性しています。

これから冬支度になり、冬のいのちと関りが深くなります。次第に身体も心もいのちも冬に備えて変化してきています。いのちの変化は、自然の変化と共にあります。

よくよく感得していのちを巡らせていきたいと思います。

晩秋の徳

毎年この澄み切った晩秋の月を観ていると暮れの秋を感じます。透明に澄んだ風景というのは終わりと始まりを感じさせるものです。晩秋というものは、これから冬に入る御報せでもあります。渡り鳥たちが移動をはじめ、虫の声も静かになってきます。初夏のあの賑やかで活気のある旺盛な頃を懐かしく感じます。もののあわれや侘びさびなどもこの晩秋になると身近に感じるものです。

私たちは季節の廻りと心情というのは結ばれています。四季のめぐりと一緒に歩んできた暮らしのなかでは、秋には秋の素晴らしさ、冬には冬の素晴らしさを観て徳を磨いていきました。

物事には表裏の関係があり、良し悪しもあります。悪いところを転じて善いものにしたり、善いものを転じてさらに好いものにしたりと、ご先祖様たちは自然の循環に逆らわずに受け入れて共に暮らしていける感謝と仕合せを感じていました。

晩秋と言えば、冬支度です。

先週から干し柿など保存食の準備をはじめたり、他にも種取りや障子の張替えをはじめたりと暮らしの中では冬の準備で目白押しです。お山での暮らし、町家での暮らし、農的な暮らしなど古民家がたくさんあるのでそれぞれに冬支度がはじまります。

今年は何かと新しいことも増え、浮羽の古民家甦生もあることで暮らしの時間を有意義に味わうように意識してきました。実際に感じるのは、毎年続けている年中行事やお手入れの御蔭様で心は穏やかに自然との調和を味わえているようで、暮らしフルネスの実践の御蔭様に有難く思います。

晩秋の光は百花繚乱にいのちが旅支度をする季節。

光をよく観て、枯れていき役割を交代していくさまざまないのちにいのりを籠めていきたいと思います。

十三夜祭

昨日は、十三夜祭を古民家和楽で行いました。遠方からも多くの仲間たちが集まって秋の風情を味わいました。そもそも十三夜とは、陰暦十三日の夜、特に、陰暦9月13日の夜を指す言葉のことです。

この十三夜のはじまりは平安時代、延喜19年(919年)、醍醐天皇が清涼殿で月見の宴を催したのが起源とされそこから広がったといわれます。この十三夜は十五夜の次に月が美しいといわれ「後の月」という別名があります。他にも福岡県では「女名月(おんなめいげつ)」とも言われます。また「栗名月(くりめいげつ)」「豆名月(まめめいげつ)」ともいわれます。この時季に秋に収穫される栗や豆を供え物にしたことからいわれます。

みんなが栗や豆などをはじめ、収穫したものをご持参してお供えすると神棚には多くのお供え物で溢れます。まさに収穫、豊穣の風情が家全体に広がります。

銀杏栗ご飯をはじめ、栗団子をみんなでつくりきのこ汁にいれて食べましたが心も身体も癒されました。他にも焼き栗をはじめ栗や豆のスイーツもたくさんいただき、みんなで栗三昧。昼間は、干し柿つくりをして古民家の玄関は干し柿がまるでイルミネーションのように飾られ秋を醸し出します。ススキの室礼やお庭で満開のキンモクセイの薫りも一期一会の豊かさを感じさせてくれました。日本人で日本に産まれてきて本当によかったと感じる懐かしいひと時です。

そしてお月見をみんなで外で味わい、少し欠けたこれから満月になる煌めきを放つ月光に深い祈りを捧げます。十五夜は秋のはじまりでしたが、この十三夜はこれから冬を迎える前の美しさがあります。少し早めに待つという文化は、日本の精神性でありその待つことの豊かさ、心の流れる時間に生きる喜びかもしれません。

最後は、音楽を奏でてみんなで和樂の時間を過ごしました。毎年、ご縁のある方とのセッションもあり年々進化発展していく彌栄の場に感動するばかりです。

毎年、暮らしの中で生きていける仕合せはいのちの喜びです。月と繋がっているという感覚は、私たちが見守れているという感覚を磨いていくことに似ています。毎月、お月さまがいて月光を与えてくれていること。月を観るということは、心を観るということでもあるのでしょう。

これからも先人の知恵に習い、暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

育ちを見守る

人は環境をつくりますが、環境もまた人をつくります。これを「場」ともいいます。私は場道家を名乗っていますが、これは場をつくることを道にしているからです。どのような場をつくっていくか、そこに生き方が入ってくるものです。

そもそも場とは、単な英語のplaceではありません。ここにはいのちが宿ります。いのちというのは、場の中で活かしあうものです。例えば、どこまでを場と捉えるかというものもあります。宇宙全体を場とするのか、それともこの家のあるところを場とするのか。その境界もまた人がつくります。これを環境ともいいます。

環境というのは、人間がつくりだす場のことです。どのような環境にしていこうとするか、そこには人の心が宿ります。とても静謐で清廉で潔白、美しく澄み切ったところにはその人の心が反映しています。その反対に、穢れ乱れるところには欲望や煩悩があり荒んだ人の心があります。ゴミが散乱している場所などもそこに心が投影されます。

人間は場を調えることで心を同時に調えることができます。

丁寧に場を調え、心を磨いている人は環境をつくるのです。

環境というものは、一朝一夕ではできません。何度もお手入れをしたりお片づけをしたり、お掃除をしたり、お祈りをしたりと心の実践の集積があって醸成されていくものです。それをむかしは教育ともいい、しつけとも言った時代もあります。

現代は、生き方や道よりも知識や手法ばかりが便利だからと優先されますがそのために失われたのがこの「場」をつくることかもしれません。場は人をつくります。私の使命もまた人づくりです。

丁寧に場を調えて、育ちを見守っていきたいと思います。

特殊詐欺

昨日、はじめて特殊詐欺の電話を受けて危険な体験をする機会がありました。誰かが同じことに遭わないように報告します。これはちょうどお昼時に、大阪府警からと連絡がありちょうど前日に大阪にいたので何かあったのかと思い耳を傾けたところからはじまりました。

少し長くなりますが簡単に整理すると、私の楽天銀行のキャッシュカードが資金洗浄に使われたとその容疑のための捜査協力の依頼という具合でそこから振り込み詐欺という流れでしょうか。

手口はとても巧妙で、守秘義務を要求し周囲に誰もいないかどうかを確認。少しでも情報漏洩あれば罪になると脅し、電話を切られないように圧をかける。一人目が生活安全課が事件の規模が大きいために操作を手伝っているとまるで市役所の窓口のような対応に似せて淡々と捜査の流れを説明。そのあと、今すぐに署に来れないのなら遠隔捜査の協力をするようにと丁寧に依頼される。その後は捜査二課に繋ぐということでlineで映像確認をしたいといい事件番号をいいそれでline接続。繋いだ映像では刑事の警察手帳と顔を映し本物の警察であるといい、権威を信用させる。

またこれが本当にいそうな刑事の雰囲気、テレビでもありそうな声、実際には過去に警察で刑事をしていたのではないかと思うような雰囲気でした。これも架空映像かもしれません。そして録音してもしも一つでも虚偽あれば裁判で不利になると脅し、容疑者に加担したことがないか、嘘をついていないかと執拗に何度も圧をかける。国家権力をかさにきて冤罪をかけるかのような勢いで疑っては、緩急つけて取り調べをする。相手がやっていないと話しても、あらゆる方向から疑いをかけ心を折れていくのを確認するように次々と容疑をかける。そして今のままでは、証拠がないから容疑者として逮捕されると脅し検事に金融調査手続きを本人が希望すればやりますよと脅す。ここで本当に何もしていないなら容疑者から被害者になれますよとアドバイス。検事につながると本人の強い希望ですかと同意を求め、その上で金融調査するので仮想通貨の取引所の開設、イーサリアムで入金を自己口座に移すことで確認できるといいやり方を指導しそこからクロージングという流れです。検事につながる間にも逮捕状や守秘義務違反罪、1年8ケ月の資産凍結などの文章を自認の確認のためと全文章を三枚ほど音読させられるのも特徴でした。これで刑事の取り調べは終了としますが、取り調べの中にいる雰囲気はテレビで見る以上の強烈な体験です。

私の場合は、申し訳ないけれど信用できないのでせっかくならその携帯の入金の操作は大阪府警本部で一緒にやりましょうと伝えたら今すぐに来れるかといわれすぐに新幹線のチケット取っていくので連絡先を教えてくださいといって電話を切る。かけ直すと使われていない番号といわれ、大阪府警に電話したらそれは特殊詐欺ですと言われ、よくそこまでいって気づきましたねと褒められて終了。あとはLINEの報告とブロック後、友人、知人に気をつけるようにお知らせしてあとはこのブログで報告という流れです。詐欺師は最後まで詐欺師を貫き、途中で電話をきったりしませんでした。

不思議なことですが、詐欺師というのは本人は嘘をついていると思っていないのではないかと思うほどに巧妙です。私は人の話をよく聴く方なので疑問に思ったことは丁寧に確認しました。振り返ってみても、悪いとも思ってもなく罪の意識もないのではないかと正確無比の返しをします。多分、詐欺は騙される方が悪いと思っているのかもしれません。しかしその時点ですでに真の詐欺に騙されているということに本人も気づきません。

また私も国家権力や権威は、普段から信用している方です。銀行もですが、嘘をつくような存在とも思ってはいません。しかしよくよく観察するとそこにも大きな嘘はたくさんあります。だからこそ、何が本当で何が嘘かというのは曖昧でもあります。小さな嘘は犯罪で大きな嘘は正義だったりもします。だからこそ日頃から騙さない騙されないと慎重に身を守る術も身に着けていくしかないのかもしれません。環境として社會が透明性を失っているときこそ、このような欺瞞詐欺が蔓延するのかもしれません。

今回のような特殊詐欺の場合は、具体的には不用意に知らない番号の電話は取らない。もし受けても、一度切ってからかけ直す。一人で受け応えするような環境を避ける。まずはここで防ぐことできます。そして、遠隔捜査などは受けない、現地に行くのでと現地の住所を聞いてから現地の警察に連絡をして確認する。あとは、どんなことがあっても口座やお金の話になったら怪しいと疑うなどでしょうか。

こういう体験は、心も傷つきますし時間も浪費します。しかし体験してみないとわからないことがあり、詐欺が如何に運気を下げるものかということも学び直しました。自己に嘘をつき、他人を騙すという行為は信頼や人間関係を破壊していくものです。徳が循環することもありません。

人はお互いを信頼しあうことで安心し、助け合うことで生き延びていくことができました。騙し合い裏切り合いも歴史を見ればよくありますが、実際に生き残ったのは信頼と助け合いを続けてきた人たちの方です。長い歳月を生きていく仕組みは、素直さや正直さや誠実さに由ります。幸運や運気というのものも、助けや信頼の中で発揮されていくものです。

この先も詐欺はなくなりませんが少しでも自分のこの体験がご縁のある誰かのお役に立てるように願います。