いい社會

会社経営というのはどのような社會にしていきたいかということと直結しています。どのような会社にするのか、これは会社がある数ほど存在します。それぞれに理想像があり、経営者を含め社員たちはその理想を目指して取り組むものです。それは文化や社風などですぐに現れます。色々な会社を見てきましたが、それぞれの社風や考え方があって共感できるものもあればまったくそうでないものもありました。

中国の古典、礼記の大学に「天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。」というものがあります。

これは国や社会をよくするには、家族や自分の行いを修めることだといいます。会社というのは、社會をつくっているものですから善い会社が増えればそれだけ善い社會が増えるということです。もしも悪い会社が増えればそれだけ社会も悪くなる。そう考えてみると、私たち一人ひとりがどのような会社を創造していくかは世の中の平和や安定、安心につながっているということでしょう。

いい会社というものはどういうものか。

以前、「いい会社、いい社會」と私が思う理念経営の会社を訪問し社員みんなで研修をしていたことがあります。清水義晴さんという高徳のメンターとのご縁の御蔭さまで、同じような理念を持つ会社をたくさんおつなぎしていただきました。この方もまた、会社を変えることで社会を変革することに生涯を懸けておられた方です。いい会社が誕生していれば、そこから世の中が変わっていくと信じておられました。

私はその中でも「徳」というものに注目しました。それぞれの持ち味を活かす経営、お互いの徳を尊重していく経営、一人ひとりが徳を磨いていく経営というものを目指し、子どもたちの憧れる社會を目指して今があります。

今は、先人たちの生き方や智慧の有難さに感謝してその徳を一つでも多く伝承していきたいと思うようになりました。懐かしい思いやりのある自然と寄り添い循環しあう心豊かな暮らしをどのように実現するか。

暮らしフルネスという生き方と新しい働き方に挑戦しています。

これからも初心を忘れずに取り組んでいきたいと思います。

場徳の醸成

無声呼人」(むせいこじん)という言葉があります。これは福寿園の家訓が由来で商売においては徳や品格が商品に必要であり、それがあれば自然と人が集まるという教訓になっているともいいます。

これは論語の徳は孤ならず必ず隣ありに意味が似ています。これは私の場の道場の実践徳目と似ていて、その場に徳が醸成すれば自然にいのちが活き活きしてあらゆるものが自然に調ってくるというものと同じです。

よく振り返って見ると、人生も同様に善いご縁がさらに好いご縁を結びます。これは好循環ともいいます。自然に一つが誠実になれば、次が自然に用意されてやってくるのです。

日本人は、「予祝」(よしゅく)という精神性を持っています。これは未来に起こる良い出来事をあらかじめ祝うことで、その実現を引き寄せる考え方のことです。現代でいえば、過去が未来になるという考え方です。今、御祝いすれば未来はそれに引き寄せられて自然にそうなるということ。

量子力学が発展して、意識というものの存在も再発見が続いています。先に私たちは意識を持てば、それに現実が顕現するということ。意識が先にできる、無から有が産まれるということでしょう。

私もこの無声呼人という言葉がとても好きです。

場づくりと徳を磨く実践には、その集まってくるご縁の楽しみと喜びがあります。

善い場をつくれば、相応のものが訪れます。よい人、よいめぐり逢いを味わいながら一期一会を生きていきたいと思います。

老舗の甦生

老舗という言葉があります。これは「仕似す(しにす)」や「為似す(しにす)」という言葉が語源でそこから「家業を継ぐ」「似せて行う」という意味になるともいいます。

先祖代々、同じような商売を継続していくということです。例えば、その土地の資源などを使ってその資源を守り循環する仕事をするのならその資源が続く限りその商売も続いていくものです。現代は、グローバリゼーションで世界各地からお金を使って資源を輸入していますがむかしはその土地やその場所の周辺で資源を活かしあってきました。

冷蔵庫もなく、物流もそんなに発達していなかった頃は地産地消は当たり前でした。石油資源を通して現代は生活を形成しています。石油が止まったらどうなるか、ほとんど経済は機能しなくなります。遠くからもってきた資源で生活するというのは本来はかなり無理があることです。

身近な畑や田んぼから野菜やお米を収穫するのではなく世界各地の野菜がスーパーに揃います。それを支えているのもまた石油です。

老舗が失われていくのは、これに似ています。身近な資源、身土不二が失われれば老舗もまた失われていくのでしょう。その土地、その場所、その人々というのは風土の景色です。

懐かしい風土がいつまでも存在するのは、心の原風景がいつまでも残っていることでもあります。老舗は心の原風景を保った存在なのかもしれません。

引き続き、老舗を甦生しながら歩みを強めていきたいと思います。

温故知新の伝承

古いものを新しくするというのは、ただ新品に替えることではありません。古いものの本質や智慧を、今でも活き活きと徳が発揮できるように創意工夫して磨き上げることです。

古いものは決して古くなったのではなく、古くしてしまったということです。これはマンネリ化をはじめ、磨くことをやめたことで経年劣化していくものです。本来は、経年変化といって丁寧に変化に合わせて磨いていけば味のある飴色のようなうっとりするものに変化します。この状態になっていると経営であれば老舗と呼ばれ、文化であれば伝統とも呼ばれます。

この老舗や伝統というものは、温故知新し続けているものという定義もあります。常に新しくなっていく中で、大切な理念や文化、智慧が現代も生きているということ。本質を保つために、本質であり続ける努力や精進を欠かさないということです。

例えば、老舗であれば目的や理念というものを定めて開業します。それを1000年後も同じことをするというのは、環境も価値観も人も背景も変わりますからその都度、定めたものが変わらないようにあらゆるものを変えていく必要があります。そこで働いている人たちも代々変わりますから、その都度変化し挑戦し続けてバトンを後者に渡していく必要があるものです。これはとても大変なことですが、温故知新というのは古い何を観て、何を知り新たにするかという挑戦です。

創業者が何を観て、何をしようとしたか。それを何代も後の人が継承するのですが、その都度、初代になっているというものです。初代というのは、常に創業しているということ。つまり創り続けているということです。創らなくなってしまえばそこでお仕舞です。だからこそ、守り続け、変え続けるということでしょう。修繕などもよくよく観察すると、温故知新していかなければできないことです。

この温故知新には、思いやりや真心が必要です。

引き続き、伝承を学びつつ、自分のお役目を果たしていきたいと思います。

原理と先生

長い歳月、修練を積んでいると肩の力が抜けていくものです。無理をせずに、少しだけの力の入れ方でコツがわかるという具合です。まるでむかしの大工工具のくぎ抜きのようなものに似ています。この釘抜きは「座金」と「梃」の2つの道具を合わせて使うものです。

くぎ抜きと言えば、私の家の代々の家紋は丸にくぎ抜き紋です。このくぎ抜き紋の由来は、クギヌキの音が「九城を抜く」に通じて、縁起が良いことによるといいます。そして武将達はこの紋にあやかって武功を立て立身出世し家を繁栄させようと願うことからともあります。「釘を打つ」という言葉に「敵を討つ」を重ねたということもあるそうです。また門の閂(かんぬき)や墓地を囲う柵を釘貫ともいい、邪を退ける結界の意味もったといいます。

くぎ抜きの仕組みは、てこの原理を使います。これも大工の智慧の一つで力学の王道です。具体的には重い物を「小さな力で動かす」ことができる法則のことをいいます。支点から作用点までの「距離」と作用点の「重さ」を掛けた値が支点から力点までの「距離」と力点に作用する「重さ」を掛けた値が等しいということ。

身近でも、栓抜きやシーソー、あるいはスコップなど私たちはこのてこの原理を使って重いものや力がいるものを上手に扱っています。

特別な力がなくても、このてこの原理のようにコツを掴めば簡単に問題を解決することができます。若い時や力が有り余っているときはこのてこの原理など使わなくても、力業で乗り切っていましたが経験を通して余計なことをしないでも楽に力を発揮することを學ぶのです。その方が、無駄な力や無理がなく、スマートに美しく力を発揮できます。

これは力だけではなく、仕事や生き方などでも反映されていくものです。

くぎ抜きもまた、その原理を学ぶ先生でもあります。我が家の家紋に恥じないように、引き続き力を磨いていきたいと思います。

新新嘗祭

もう今年で無肥料無農薬で田んぼづくりをはじめて14年目になります。来週は新嘗祭を開催する予定で感無量です。特に今年は、すべて手植え手刈りの稲架かけ米で思い入れもあります。お田植祭では、子どもたちがたくさん参加して不揃いになりましたが味のある素敵な田んぼになりました。

振り返ってみると、田んぼをはじめた理由は東日本大震災からです。あの時、東京で被災して人災の悍ましさや謙虚さを犠牲になった人たちのためにも忘れてはならないと戒め、無肥料無農薬の田んぼを借りてはじめました。

そこからは収量は気にせず、プロセスや生き方、そして豊かさや学び、人々の助け合いや感謝が循環する生き物がいっぱいの仕合せの田んぼを目指してきました。その思いは今もまったく変わりません。

御蔭様で、不思議なことの連続を体験し少なかった収量は他の慣行農法の田んぼに匹敵するほどになり田んぼの中ではあらゆる生態系が調和して清々しい場ができました。そのお米は大学で調べると抗酸化力が有機農法の三倍あるとされ、また小粒ですが深い味があると人気でした。

もともと日本人は、親祖の時からお米の種を大切に守りお米づくりを通して理念を伝承してきました。その証拠に、しめ縄をはじめあらゆる神道の年中行事はお米を中心に実施されます。お米の持つ力は、単なる空腹を満たすだけではなくまさに湧水のように滾々と出てくる元氣の源泉のような存在です。

そして新嘗祭はまさに生まれ変わりの祭事であり、元氣が甦るための大切な神事です。

今を共に生きる人たちと一緒に新嘗祭をすることは、今を甦生して新たな生き方を伝承していく研ぎ澄まされた純度の高い道の実践でもあります。

今年は、ご縁あって浮羽市の古民家を甦生して新しいお米屋さんをつくるお志事をいただきました。これは日本人がお米離れが進む中、元氣のあるお米、真に安心安全の徳のあるお米をこの時代に食べてもらうために温故知新したものです。

パン食が増え、小麦が増えましたが本来は日本の風土を守り、田んぼを守り、子孫を守るために私たちの先祖は代々お米を食べてきました。時代が変わっても、普遍的な智慧は変わることはありません。

時代を否定することなく、尊重して本来の智慧を伝承するのです。

子孫のためにも、素晴らしい新嘗祭を開催していきたいと思います。

生き方と神秘性

私たちのすべての現象というものは自然物から學ぶことができます。火や水や風、土などあらゆるエレメントは常に組み合わせによって現実を象ります。この精霊ともいえる、不思議な存在はまだすべて発見できているわけではありません。この宇宙には、まだまだ知られていない精霊がありそれは知らなくても私たちの暮らしの中で大いに役立っています。

例えば、人体の神秘もですがわかっているだけのものではありません。まだまだ現代の科学や医学では理解できないもので溢れています。そういうものを発見するのは、自然に精通する感性が磨かれていなければ難しいものです。

私たちが無意識に感じている重力をはじめ引力、回転なども実際には多大な影響を与えこの世を象ります。また熱や火といった光もまた多大な影響を象ります。目に見えたり感じるものを抽出しても、すべてを再現する科学はまだありません。

意識というものもまた同様に、意識というエネルギーが他の精霊などと連携して現象を顕現させることも、あるいは二つ以上のものが一つになってはじめて象るものが変化するものも、私たちが無というものを再現できないのもこの不思議な力を理解できないからです。

それを神秘とも呼びます。

この神秘性というものは、スピリチュアルとか怪しいとかいわれますが実際には知識で理解できるものの方が本当は怪しいものがほとんどです。実際ではそう見えただけで本質は異なるものばかりだったりもします。本来は神秘は神秘のままで直観して理解していく方が本質的であることもあるのです。

現代は、偽装やそれ風で本物に仕立てあげていくものです。その方が、お金になり儲かると思っている人も増えています。正直というのは、神秘性を信じるからできるもので神秘性を利用しようとはしないものです。

真の信仰というのは、謙虚であり正直で素直でいるということでしょう。

色々なものを生き方を通して象りながら、神秘性を伝承していきたいと思います。

自然の恩恵

世の中の商品には、自然環境を著しく破壊するものがたくさんあります。同時に、人体を著しく破壊するものもあります。今も文明と人類が滅び、長い時間が経ては回復するかもしれません。しかしそれはとても残念なことのように思います。

そもそも縄文人をはじめ、太古の人々は自然と共生して自然の恵みだけで生きてきました。その恵みを過剰に取りすぎず、破壊しないように配慮して長い時間をかけて回復する自然の恩恵に肖っていました。その自然の恩恵に氣づく感性もまた研ぎ澄まされていたようにも思います。

どこからか自然の恩恵よりも資源として採掘をはじめ、それをどう資金にしていくか。埋蔵金の発掘や海賊のように恩恵を搾取するようになりました。それも個人の権利として特定の人たちがだけが独占するという具合です。

恩恵の独占によって恩恵から外された人たちは厄難であり迷惑をうけます。特定の人たちが権力や富を牛耳ることで問題が発生して恩恵ではなくなったということでしょう。つまり恩恵をわが物にして、恩恵を与える側になったようにふるまうのです。

恩恵というものは、人間が造り出したものではありません。恩恵は元々、宇宙自然によって存在しているものです。その恩恵をみんなで分け合い暮らしていくと決めて生きてきたのがかつての人々であったということでしょう。

権力者や独占者は、恩恵を奪取するのが得意です。恩恵がなくても、恩恵のように見せかけて人間を操るのも得意です。最近では、マッチポンプといって敢えて環境を壊すことでそれを回復させているかのように振舞いお金を集める組織や会社も氾濫しています。マッチポンプとは、自分で起こしたもめごとを鎮めてやると関係者にもちかけて報酬を得ることのことをいいます。

自作自演をして恩恵を誤魔化しているのを見ると、悍ましさに悲しみも覚えます。今の時代、グローバリゼーションがそれを加速させています。

暮らしを調えていくことは、生き方を調えていくことでもあります。

よくよく自然の恩恵とは何かを見究め、恩恵と共に暮らしていくことを積み重ねていくことでしょう。子どもたちのためにも、恩恵に感謝する暮らしを精進していきたいと思います。

お米問題

日本のお米問題はかなり深刻です。その理由は、食文化ではなく単なる食料としてお米を扱うことにあります。それぞれの国には、何を主として食べてきたかという歴史、いわゆる食歴というものがあります。長い歳月、それを食べてきたというのはそれだけ深い意味があります。

たとえば、その気候風土に適うもの。それは自然との共生や循環とも関係します。また長い歳月をかけて自分たちの腸内細菌をはじめ、もっとも栄養素やいのちを循環させるのに適した状態にお互いに変化しあっていること。またそれを育てて見守る過程で、文化や伝統の智慧を継承してきたことなどがあります。

私たちのお米は、神社や神棚のしめ縄にもなり、あらゆる暮らしを助けてきました。また田んぼは貯水の役目を果たし、お水を浄化し菌を発酵させる場になりました。他にも結などの助け合いを促し、精神性などを磨く大切な素材ともなりました。家の屋根を守り、馬などの家畜も育てる、納豆などもまた稲藁を使います。

つまり主食が失われるというのは、単に物量が失われるのではなくその周辺にあるあらゆる知恵や文化やつながりが失われるのです。

お米問題の本質とは、このことです。

私がお米を無肥料無農薬でつくるのをみんなで力を合わせて取り組むのもまたこのお米の本質を守るためです。

お米によって助けていただいたご先祖様たち、そして今でも子孫を守ってくれている存在。その存在を守ろうとするのは当たり前のことです。

感謝を忘れず、お米に取り組んでいきたいと思います。

お庭

現在、浮羽の古民家の庭の甦生に取り掛かっています。朝倉の水害の石を使って石組みをし、その石組みの徳が活かせるように目的と理念と自然が調和するように手掛けています。

そもそも庭師をはじめお庭の原点は何か、それは信仰に基づくものです。現代では、庭は趣味や嗜好で人工的につくられていますがかつての庭は極楽浄土をはじめ神域を顕すものでもありました。

それを私は「お庭」と呼びます。

お庭というのは、いのちが宿る大切な場です。場というのは、調和することでいのちが耀くものです。よく調和したお庭には、そこで生きる全ての存在の徳が顕現します。

私は場づくりをしますが、庭師ではありません。大工でもありません、実は何でもなく場づくりをするだけです。それぞれの専門職にわかれて、それぞれの視点や角度で仕事をする時代、そしてお金にする時代です。

しかし本来は、お庭もその場の主人によって見守り育てていくものでした。そしてそのお庭には、神様が宿り全体を見守ります。まるで神社とお社、杜の関係と似ています。

大切なことは、お庭も生き方の一つということです。

引き続き、これから2か月かけてお庭を仕上げていきますが徳を活かしあうような場にしていきたいと思います。